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1999/06/05-2007/11/27

アルトシュテッテン/Artstetten

アルトシュテッテン城サラエボ事件は、第一次世界大戦の引き金として良く知られています。しかし、アルトシュテッテンの地名を聞いてサラエボ事件を思い浮かべる人は、よほどウィーンの歴史に詳しい人でしょう。

アルトシュテッテンは、有名な観光地メルクの奥に位置するハプスブルク家の宮殿です。ウィーンから西へ高速道路80キロ程度でメルク ⇒ このメルクで高速道路を下り ⇒ 一般道をメルク修道院方向に移動 ⇒ 途中、メルク修道院方向への道路標識では、修道院へ曲がらず直進し ⇒ ドナウを渡り ⇒ ドナウ沿いに上流方向に30キロ程度で、アルトシュテッテンへの道路標識が見つかります。そこからドナウを離れ数キロ北上すると、写真のお城が見えてきます。

皇太子フランツ・フェルディナンド

霊廟入り口 棺 皇太子フランツ・フェルディナンドやサラエボ事件の話しは、ウィーンの観光中さまざまな箇所で聞きますが、そのゆかりの地となるとあまりありません。あるとしたら、彼がそこに住み、そこから旅立って帰らぬ人となった ベルベデーレ宮殿 や、ウィーン市心の歴代皇帝の霊廟内部のフランツ・フェルディナンド記念プレートぐらいでしょう。

もちろん 軍事史博物館(独/英) にはそのときの自動車や着ていた軍服の展示があり、観光ガイドは水を得た魚のごとく一次対戦勃発の話をしますが、一般の観光では軍事史博物館の入場はめったにしません。また、ベルベデーレ宮殿内部は美術館として改装され、彼が使った部屋の様子は今では残らず、皇帝霊廟に行っても記念プレートのみで棺はそこにはありません。

愛を選んだオーストリアハンガリー2重帝国の皇太子

貴賎結婚をした皇太子夫妻は、庶民の血が入っているという理由で、フェルディナンド皇太子はともかくも、奥様ゾフィーは栄光あるハプスブルクの霊廟には入れませんでした。ハプスブルクの恥部と考えられたこの貴賎結婚によって、帝国の将来を担う皇太子夫妻は公の席に夫婦で立つ機会がなく、そのため、暗殺計画の発覚にもかかわらず、夫婦で並び華やかな式典に出席できたサラエボでのパレードを強行し、凶弾の犠牲者となったのです。皇帝霊廟の記念プレートには「第一次世界大戦の最初の犠牲者」と記されています。

サラエボ事件、第一次世界大戦勃発

フランツ・フェルディナンド皇太子のこの話は、チェコのコノピシチェに行っても聞くサラエボ事件の話です。オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドが、ボスニアの首都サラエボで、セルビアの民族主義の青年に暗殺され、それによって皇帝フランツ・ヨセフは厳しい最後通牒をセルビアに送ります。結果、オーストリア・ハンガリー二重帝国はセルビアに宣戦布告、セルビアの背後から支えるはずのロシアはセルビアではなく直接オーストリア・ハンガリー二重帝国に進軍、攻められたオーストリア・ハンガリー二重帝国と条約を結んでいたドイツはロシアに宣戦布告、当然の成り行きとしてロシアと同盟を組んでいたフランス、さらにイギリスにも宣戦布告、そしてアメリカ、日本も参戦。第一次世界大戦勃発です。

皇太子フランツ・フェルディナンドといえば、即この話になるでしょう。そのフランツ・フェルディナンドと皇太子妃ゾフィーが共に眠るのが、アルトシュテッテンです。

アルトシュテッテン城の展示

アルトシュテッテンには、霊廟の公開と、「心と冠 (For Heart and Crown)」をテーマにした常設博物館の大きな展示があります。

展示では、第1時世界大戦勃発という歴史の区切りの他に、宮廷生活と引き換えに貴俗結婚を選んだことから、ハプスブルクの皇室としての使命よりも、一人の人として愛を貫いた人間の生き様を浮かび上がらせるべく、彼の幸せな家族生活をたどります。

一時大戦の引き金となったサラエボ事件の現実は、両親を失った3人の子供が一瞬にして孤児となったことでした。

高崎守弘
Schloss Artstetten
Erzferzog Franz Ferfinand Museum
A-3661 , Artstetten 1 , Austria
Tel:+43+7413+83 02-21
Fax:+43+7413+83 02-15

開館時間: 01.Apr.~02.Nov.
毎日9~17時半
3人の子供とスケート