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2018/04/07-2021/12/30更新

モーツアルトの死

中央墓地のモーツアルト墓碑右の写真は、ウィーン中央墓地の名誉地区「32A」にあるモーツアルト(1756-1791)の墓碑です。撮影は2018年。

このページの内容:
1.モーツアルト墓碑が2ヶ所
2.モーツアルトとフリーメイソン
3.モーツアルトのレクイエム
4.モーツアルトのお葬式と埋葬
5.モーツアルトのお墓のミステリー
関連項目:
・ウィーン中央墓地
・ウィーン観光:中央墓地
関連リンク:
・Felix Czeike: Historisches Lexikon Wien(独)
・Biographie W.A. Mozart's(独)
・グーグル「Michael Lorenz Mozart」(独)

1.モーツアルト墓碑が2ヶ所

モーツアルトが葬られた聖マルクス墓地に墓碑が置かれることになったのは、モーツアルト生誕100年の準備が始まった1855年のことでした。

このときに初めて公的機関による聖マルクス墓地の大掛かりな調査がされ、墓穴の場所が「大きな確率/mit größter Wahrscheinlichkeit」で特定されました。4年後の1859年には、その場所に彫刻家ハンス・ガッサー作の墓碑が完成、この墓碑はモーツアルト没後百年の1891に中央墓地に移され現在に至ってます。中央墓地の区画「32A」に行けば、ベートーベンやシューベルト、ブラームス、ヨハン・シュトラウスのお墓と共にモーツアルトの墓碑も見られます。

聖マルクス墓地に葬られたモーツアルトの亡骸は未だに見つかってません。そのため、モーツアルトのお墓を中央墓地に移すときは、亡骸無しで墓碑のみの移転でした。つまり、中央墓地にある墓碑はモーツアルトの記念碑で、モーツアルトは現在も聖マルクス墓地のどこかに眠っているのだそうです。

聖マルクス墓地に置かれた現在のモーツアルト墓石墓碑が中央墓地に移されたことから、モーツアルトが葬られた聖マルクス墓地にはモーツアルトの墓碑が無くなり、程なくして埋葬場所と思わしき場所に新たに墓碑が設けられました。この二つ目の墓碑が、現在聖マルクス墓地で見られる墓碑の原型となったものです。このページ下方に説明と共に白黒写真を貼っておきます。

この聖マルクス墓地に置かれた二つ目の墓碑は、戦後(1945-55)に新たに作り直され、さらに没後200年の1991年には墓碑一帯の茂みを刈り取り、墓碑の芝生にも美しく花が植えられました。並木道から墓碑までの小路は、このときに通されたものです。

それまでは、茂みを掻き分けながら探さないとお墓が見つからないほどに荒れ果てていたのが、このときに立派な立て看板も置かれ、あたり一帯がいかにもモーツアルトのお墓らしく形成されたのを覚えてます。

さらに2016(2017?)年の修復では石灰岩むき出しだった墓碑に白ペンキが塗られ、芝生の花も美しく形成されました。2018年撮影の右の写真には写ってませんが、この修復で並木道から墓碑に向かう小道のベンチも設置されました。

2.モーツアルトとフリーメイソン

モーツアルト最期の場所の記念盤右の画像は、モーツアルト最期の場所に掲げられている記念盤です。最期の建物は1849年に建て替えられたと記されてます。歩行者天国ケンルトナー・ストリート至近の猫カフェ(独)界隈ですから、そこで働いている日本人に尋ねれば、この記念盤の場所を教えてもらえるでしょう。

モーツアルト「魔笛」初演の場所モーツアルト最期のアパートはフリーメイソンのグランドロッジ向かい側の建物でした。今でもグランドロッジの周りにフリーメーソン関係のお店などが並んでいたり、上階が渡り廊下でグランドロッジと繋がっていたりということを考えると、フリーメイソンの会員だったモーツアルトは、晩年フリーソン関係の建物に居たということになります。

モーツアルトが作曲したオペラ魔笛の台本作家シカネーダーもフリーメーソンの会員ですし、この最期のアパートに居たモーツアルトがお金の無心の手紙を出した宛先もフリーメーソンの会員でした。モーツアルトの周りはフリーメイソンで溢れていたように見受けられます。

なお、最晩年のオペラ「魔笛」の描写でモーツアルトがフリーメイソンの秘密に触れたという理由からのフリーメイソン暗殺説もありましたが、サリエリによる暗殺説も含めて現在は否定されてます。1974年に出て大きな話題となったディーター・ケルナー氏「大音楽家の病歴(絶版)」中の考察は、その後否定されている内容が多いようです。

因みに1791年9月30日のオペラ「魔笛」の初演は、アン・デア・ウィーン劇場ではなく、フライハウス(免税館)一角の劇場だったそうです。1787年に完成したこの劇場は、1785年10月からのフライハウス大改築で建造された記録が残されてます。

魔笛が初演されたフライハウス劇場は、ヴィーデン劇場(Theater auf der Wieden、または当時Wiedner Theater記載)と呼ばれ、1789年からは魔笛の依頼者シカネーダーが劇場監督を務めてました。

die Bühne im Freihaus mit der Uraufführung der Zauberflote am 30. September 1791. Den Text zur Oper hatte der Direktor Emanuel Schikaneder selbst verfasst. Josepha, die älteste Schwester von Mozarts Frau Constanze, sang in der Uraufführung der Zauberflote die Königin der Nacht. Mozart selbst dirigierte bei dieser Uraufführung und Schikaneder spielte den Papageno.1791年9月30日にフライハウスで初演されたモーツアルト魔笛は劇場監督のシカネーダ自身の台本。初演の配役は、夜の女王がコンスタンツェの一番上の姉ヨゼファ、モーツアルト自身の指揮で、シカネーダはパパゲーノ役。[Freihaustheater]

このフライハウス劇場は1801年6月11日の公演が最後の記録で、その後取り壊され、1913年の都市計画で後にそこに通されたOperngasse通りに記念碑が見られます。

魔笛小屋:モーツァルトは1791年の3月から9月にかけてオペラ魔笛の作曲を進め、プラハでのオペラ『皇帝ティートの慈悲』上演のための中断を経て、9月28日に完成させた。当時妻コンスタンツェがバーデンへ湯治に出ており、モーツァルトは一人暮しをしていたため、シカネーダーは彼にフライハウス内のあずまやを提供した(このあずまやはザルツブルクの国際モーツァルテウム財団の中庭に移設され保存されている)。[Wikipedia魔笛から引用]

関連リンク:
・Freihaus auf der Wieden[Wikipedia](独)
・Freihaus auf der Wieden[WIKI](独)
・Freihaus[Wikipedia](独)
・検索結果:freihaustheater(独)
・1939年の動画:最終地移転前の魔笛小屋(独)
・Emanuel Schikaneder[Wikipedia](独)
・Theater an der Wien[Wikipedia](独)
・フリーメーソン[Wikipedia](日)
・Freimaurer[WIKI](独)

3.モーツアルトのレクイエム

モーツアルト最期の場所となったアパートを「背が高く、やせ気味、灰色のコートを着て、 不気味な感じのする、男」が訪ね、少なからぬお金と引き換えに鎮魂歌/レクイエムの作曲を依頼したのはよく知られた話です。当時は著作権法が無かった時代ですから、作曲者が名前を隠して依頼人に代わって作曲するということが間々あったようです。今流のゴーストライター(日)です。

病床のモーツアルトは「自分のための鎮魂歌」と言いながらレクイエムを作曲し、未完で没します。死の床で弟子のジュースマイアーにレクイエム完成までの詳細説明をし、ジュースマイヤーにより完結されたのが世界中で演奏されているモーツアルトのレクイエムです。

このレクイエム作曲依頼者がフランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥパハ伯爵、使者がその伯爵知人フランツ・アントン・ライトゲープ (Franz Anton Leitgeb)であったことが判明したのは、その後1世紀半が経過してからでした。

伯爵とモーツァルトとの契約内容について、シュナイダーは古文書の記録の中から、ゾルチャンという公証人のもとに作成された契約書を発見した。それによるとこの報酬はかなりの金額で、そこには自筆譜であること、この委託を秘密にしてほしいという異例の条項が含まれていた。[安彦正一:モーツァルトの作品「レクイエム」論争の一考察158ページ参照:Schneider, O. : Mozart in Wirklichkeit, Wien. 1955.より]

このレクイエムがモーツアルト作として知られるようになったのは、未亡人となったコンスタンツェが契約金の払い戻しを避けるために、曲を完成させてヴァルゼック伯爵に渡した後に、モーツアルトの作品として上演したためだそうです。伯爵はモーツアルトの名を隠して自分の作品として自分の町で発表していたことから、契約違反のコンスタンツェに対する訴えを途中で考え直したようです。

関連リンク:
・レクイエム(モーツアルト)[Wikipedia](日)
・ジュースマイヤー[Wikipedia](日)
・ジュースマイヤー異聞(日)避難
・Franz von Walsegg[Wikipedia](独)

3a.モーツアルトの死因について

モーツアルトの死因については諸説紛々ですが、高熱、発疹、発汗、腫れ、手足や背中の痛み、嘔吐、下痢で衰弱していたにもかかわらず、最後まで意識があったことから死因はリュウマチ熱か、それに似た症状の「連鎖球菌による感染」ではないかという説がよく知られてます。

関連リンク:
・音注意:Mozart's Mysterious Death(英)
・モーツァルト・死因[Wikipedia](日)

4.モーツアルトのお葬式と埋葬

1764-1787年制作のウィーン地図 モーツアルトは現在のウィーン旧市街地で没してます。幕末の頃まではリンク通りの少し内側にリンク城壁が残されており、その城壁内です。1791年12月05日、享年35のことでした。管轄の聖堂区教会はシュテファン(大聖堂)でした。

モーツアルトの亡骸は、前年1790年に没した皇帝ヨゼフⅡ世による埋葬令により、住宅地での埋葬が禁止だったことから、1783/84年に外環状城壁/リニエンヴァルの外に点々と作られた5つの墓地のうちの一つ、聖マルクス墓地に葬られることになりました。

住宅地での埋葬禁止は安全な飲料水確保のためで、疫病流行の防止と、死臭漂う井戸水を避けるためだったそうです。

歩行者天国グラーベンを散歩すると、バーベンベルク家レオポルドⅢ世の像が立つ井戸の名残が見つかります。シュテファン墓地からは100m程度の至近です。

そのシュテファン墓地はマリア・テレジアの長男ヨゼフⅡ世によって閉鎖され、更地にされました。そのときに名士達の墓石のみシュテファン教会の外壁に残されましたが、その後これらのオリジナル墓石は保存のためにウィーン歴史博物館に移され、現在シュテファン外壁に貼られている雨ざらしのルネサンス墓石はコピーだそうです。

4a.聖マルクス(サン・マルコ)

ウィーン中央駅の「聖マルコの有翼獅子」モーツアルトが亡くなった頃は、オスマントルコとの戦争で名を成したオイゲン公の進言を受けた皇帝レオポルドⅠ世が2本めの城壁(リニエンヴァル/Linienwall)を築いた約80年後のことで、ウィーンの市街地がリンク城壁の2-3キロ外側まで拡大してました。

聖マルクス墓地は、当時拡大していた市街地の外側、外環状城壁のすぐ外側に置かれた墓地です。この外環状城壁が現在の外環状道路(ギュルテル/Gürtel)です。

外環状道路のすぐ外側に位置するウィーン中央駅(日)に行くと、構内にサン・マルコを象徴する「羽のあるライオン像」が置かれてます。これは元々中央駅が開かれるまで近くにあったウィーン南駅構内から移したものです。右の写真は2020年の撮影です。

聖マルクスとはイタリアでの「サン・マルコ」、つまり新約聖書の「マルコによる福音書」を記した聖マルコです。ベネチアのサン・マルコ寺院は彼のお墓です。マルコがベネチアに眠っていることから、ベネチアでは氏神さまとして祀られてます。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は昔から、人、ライオン、雄牛、鷲(わし)に例えられてきました。それは『エゼキエル書』1章に登場する四つの生き物の姿が出典です。「その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた」(1:10)。マルコは福音書の書き出しを「荒野で叫ぶ声」で始めています。これはライオンの咆哮を連想させます。またイエスの奇跡的な力が強調されていることからも、強さを表すライオンのイメージになると言います。何より福音書の最初に登場するのが荒野で呼ばわる洗礼者ヨハネであり、ヨハネは「砂漠の獅子」となぞらえて呼ばれるので、マルコと獅子が結びついたのです。[聖マルコの有翼獅子2012/4/15] 加筆:聖なる獅子を神の宿る空近く表現したのが獅子の「翼」。

かつてウィーンからベネチアへ伸びた街道沿いには、旅の安全祈願からマルコの道祖神が点々と置かれたそうです。聖マルクス墓地が開かれた頃のウィーンは外環状城壁に囲まれていたので、その城壁を出てベネチアへ向かうときに、すぐに横を通過する墓地を旅先の氏神さまに捧げたのが、サン・マルコ墓地、つまり聖マルクス墓地だそうです。もちろん、ウィーン中央駅の聖マルクスのライオンも、元々はベネチア旅行の安全祈願として旧南駅の構内に置かれたものです。

ヨーロッパの主要駅の話はタクシス(日)との関連もあり、長くなるので、機会を改めて公開できればと思ってます。

関連リンク:
・Linienwall[Wikipedia](独)
・Gürtel (Wien)[Wikipedia](独)
・Bestattungswesen(独)
・St. Marxer Friedhofspark(独)

Als er am 23. August 1784 verfügte, dass Sarge nicht mit der Leiche beerdigt werden sollten ("Josephinische Särge" mit unten aufklappbarem Boden, damit die Leichen herausfallen konnten), musste er diese Anordnung wegen des massiven Widerstands der Bevölkerung am 27. J&aiml;nner 1785 zurücknehmen. Bis ins 18. Jahrhundert herrschte bei den Begräbniszeremonien grosse Einfachheit vor (Aufbahrung im Sterbehaus, Einsegnung in der Kirche, Organisation durch Mesner oder "Konduktansager"). Die seit Mitte 17. Jahrhunderts übliche Totenbeschau wurde 1784 zwingend vorgeschrieben. 1783/1784 wurden alle Friedhöfe innerhalb des Linienwalls, das heisst auch in der bisherigen Vorstadtzone, aufgelassen und vor den Linien neue Friedhöfe (Kommunalfriedhöfe) angelegt ([[Hundsturmer Friedhof,Matzleinsdorfer Katholischer Friedhof, Schmelzer Friedhof, St. Marxer Friedhof, Wahringer Allgemeiner Friedhof); nach der Eröffnung des Zentralfriedhofs (1874) wurden sie geschlossen.底板が開閉式の貸出し棺桶。リニエンヴァル城壁の内側は埋葬禁止、その外側の5つ墓地に埋葬のこと。1874年からは、この5つの墓地に替わり中央墓地。[Bestattungswesen2017/01/13]

5.モーツアルトのお墓のミステリー

モーツアルトの天真爛漫な性格については、映画「アマデウス」で見事に描写されており、その映画が全てフエイクだと言われる中で唯一の史実と考えられます。人格形成に影響のある6才から25才まで、ずっと旅ばかりでしたから、大人の社会で甘やかされたのが、この性格形成の要因と考えられます。

自由奔放に生きたモーツアルトの晩年は、借金まみれだったそうです。かなりの収入があったにもかかわらず、財を失ったのは、当時流行った賭けビリヤードだったのではないかという説もあります。実直だったモーツアルトのお父さんレオポルド・モーツアルトがある程度の遺産を残したのとは大きな違いです。

未亡人となったコンスタンツェがモーツアルトのために出した葬儀は、ハプスブルク皇帝ヨゼフⅡ世が決めた埋葬令で最下等のものでした。借金まみれだった亡夫よりも残された未亡人を心配した仲間の助言もあったそうです。

モーツアルトの告別式は大聖堂内部の主祭壇ではなく外壁にある小さな礼拝堂で執り行われ、亡骸は郊外に位置する聖マルクス墓地へ運ばれ葬られました。

この三等級の埋葬では、5体の遺体を一緒に埋める共同墓穴、棺は行政が用意した貸出し木棺、墓石と献花が禁止でした。

関連リンク:
・Bestattungsmuseum(独)
・Oberlaa zentralfriedhof(独)葬儀博物館至近

ヨゼフⅡ世の埋葬令では、蘇生する人の生き埋め防止のために、死亡翌日の埋葬が禁止でした。よく知られた葬式の天気に関する言い伝えと、気象庁の記録の一致により、お葬式の12月07日は小雨で空を重く雲が覆っていたことがわかっているそうです。

病弱だったコンスタンツェは風邪のため、ウィーン郊外に位置する聖マルクス墓地へは同行しませんでした。当時の習慣で外環状城壁の外に位置する墓地まで誰も同行しないこともあったようです。また、共同墓穴は10年毎に整備され使い回しされたことから、未亡人となったコンスタンツェが後に再婚したニッセンと同棲していた1808年頃に亡夫モーツアルトのお墓に行ったときには、墓掘人ヨーゼフ・ロートマイヤー/Josef Rothmayrが世を去った数カ月後のことで、モーツアルトの葬られた場所がわからなくなってました。

モーツアルトの埋葬については、はっきりとした記録がありません。1987年頃の記憶ですから曖昧なところもあると思いますが、ウィーン州立のガイド学校の授業で聖マルクス墓地に行き、そのときに聞いた公園課職員の話によると、モーツアルト埋葬の8年後に聖マルクス墓地に葬られたアルブレヒツベルガー(日)の埋葬に4人の大人と2人の子供が立ち合ったらしいとのことでした。このときに同行した子供の記憶から、門から真っ直ぐ伸びる坂道、突き当りの大きな十字架(当時は木製)、モーツアルトとアルブレヒツベルガーのお墓の位置関係が、没後半世紀が経ったときのモーツアルト墓石建立の場所決定に役立つことになったようです。

因みに、モーツアルト没後10年経った1801年の共同墓穴整地のときに、モーツアルト弔い時の墓掘人ロートマイヤーが橈骨を掘り出し家に持ち帰ったたそうです。ロートマイヤーはモーツアルト埋葬時にモーツアルトの頭に目印として針金(ワイアー?)を巻いておいたそうです。

この橈骨は、1902年からモーツアルテウムが保管しています。没後200年の1991年に、この橈骨のサンプルとモーツアルトの家族2人のサンプルのDNA鑑定がされましたが、3つのDNAサンプルに血縁の関係が無く、その上、ロートマイヤーが掘り出した橈骨は女性だったらしいとのこと(海老沢敏氏から聞いた話1991年)。
、、、このモーツアルト橈骨の話しについては、長くなるので以下リンク(独)参照。

関連リンク:
・モーツアルテウム(独)
・1)Joseph Rothmayer(独)
・2)Joseph Rothmayer(独)
・Hermine Cloeter[Wikipedia](独)
・Alexander Kugler(独)
・Kurioses um den Totenschädel von Mozart(独)
・4.モーツァルトの頭骸骨に関するミステリー(日)

5a.モーツアルトの研究

モーツアルトの伝記が最初に発表されたのは1829年のことでした。この伝記は、モーツアルト死後6年の1798年からモーツアルト未亡人コンスタンツェと同棲し、1809年にコンスタンツェと結婚したゲオルク・ニッセンによって書かれ、ニッセンの死後3年経った1829年に補完され発表されたものです。

ニッセンはコンスタンツェが片付けて捨てようとした亡夫モーツアルト関連の資料の多くを保存し、1820年に退官後モーツアルト生地のザルツブルクに移住し、モーツアルトの手紙400通と共に伝記をまとめました。この伝記で欠落しているのは、モーツアルトとコンスタンツェがどんなに深く愛し合っていたかという点のみと考えられ、モーツアルト研究で最も重要な著述と考えられます。

関連リンク:
・ゲオルク・ニコラウス・ニッセン(日)
・Georg Nikolaus Nissen(独)
・バイエルン国立図書館:Biographie W.A.Wozart's [Nissen](独)

モーツアルト没後50年の1841年にはザルツブルクにモーツアルト研究機関が生まれ、モーツアルトが学術的に研究されるようになりました。これが現在の国際モーツァルテウム財団です。

ウィーン西駅のエリザベート像モーツアルトの共同墓穴の位置調査が行なわれたのは、モーツアルトの死後半世紀ころのことでした。共同埋葬用に地面に刺された木の十字架はあっという間に朽ち果て、モーツアルト埋葬後10年の1801年には、次の共同墓穴のために整地され、目印らしいものは残されてませんでした。残念ながら墓掘人ロートマイヤーが数ヶ月前に世を去った後でした。

モーツアルトの埋葬場所が「大きな確率/mit größter Wahrscheinlichkeit」で特定されたのは、市長のJohann Kaspar von Seillerの名で1855年に調査が行われたときです。1855年というとモーツアルト生誕100年1856年の前年ですから、モーツアルト生誕100年祭に合わせてのことでした。

これにより設置されたモーツアルト最初の墓碑は1859年12月06日に除幕されますが、その32年後、没後百年の1891年に中央墓地に移されることになります。

中央墓地に移された彫刻家ハンス・ガッサー(1817-1868)作のモーツアルト墓碑は、ニンフ(日)が椅子に座り、下を向いた姿でモーツアルトの死を悲しみ、モーツアルトが死の床で作曲し、事切れる直前にそのメロディを歌ったレクイエムを手にしてます。

ハンス・ガッサーは、このモーツアルト墓碑を手がけた直後1860年に彼の代表作となったウィーン西駅(当初は皇后エリザベート駅)のエリザベート像(撮影2020年)を手がけ、さらに宮廷歌劇場(現・国立歌劇場)完成の前年1868年にその脇左右に置かれた噴水の彫刻を完成させてます。これが彼にとっての最晩年の作品となります。

関連リンク:
・Hanns Gasser[Wikipedia](独)

Eine Kulturgeschichite des 3.Wiener Gemeindebezirks 59ページこのハンス・ガッサーのモーツアルト墓碑は、30数年後の1891年には中央墓地へ移されてしまい、一度は「大きな確率」で特定された共同墓穴の位置が失われます。

20世紀に入ってから墓守人により「そのあたり」に名前・没年が刻まれた墓石板が置かれ、他の墓石の一部に使われ、折れて不要になったていた「石柱」と「天使」が添えられたそうです。これが聖マルクス墓地に行くと見ることのできるモーツアルトの墓石の原型となります。この墓碑は1945年に二次大戦で被害を受けたことから1950年に彫刻家のFlorian Josephu-Drouotにより新たに再現され、現在の墓石は1955年頃と2005年、2016(2017?)年に修復したものだそうです。

関連リンク:
・Sparsarg[Wikipedia](独)
・Die Welt der Habsburger:Sparsarg(独)
・St.Marxer Friedhofspark(行政ページ独/英)
・St.Marxer Friedhof[Wikipedia](独)
・モーツァルトの眠る聖マルクス墓地を訪ねる(日)
・国際モーツァルテウム財団(日)
・Wikipedia: Hermine Cloeter(独)

Grabmal des Bildhauers Hanns Gasser, das am 6. Dezember 1859 enthullt wurde, uberfuhrte man bereits 1891 anlässlich Mozarts hundertstem Todestag auf den Wiener Zentralfriedhof. Die nun leere Stelle ergänzte ein Friedhofswärter mit Teilen von anderen Grabstätten, die nicht mehr benötigt wurden. Im Kriegsjahr 1945 wurde das Grabdenkmal schwer beschädigt und 1950 vom Bildhauer Florian Josephu-Drouot instand gesetzt.
Im Jahr 2005 wurde das Grabmal erneut restauriert und befindet sich auch heute an jener Stelle, an der Mozarts sterbliche Uberreste vermutet werden.
ガッサーの墓碑が中央墓地に移された後、墓守人が不要となった墓石をそこに並べた。この墓碑は1945年に大戦で被害を受けたことから1950年に彫刻家のFlorian Josephu-Drouotに再現され、2005年に修復された。 [Mozartbiographieから引用]

5b.ウィーン中央墓地のモーツアルト

モーツアルトが葬られた聖マルクス墓地や、ベートーベンとシューベルトが葬られた現シューベルト公園、旧ヴェーリンク村墓地を含む5つの墓地は、1874年にウィーン郊外に広大な墓地センター(中央墓地)が開かれ、外環状城壁が取り壊され市街地の中に飲み込まれた1894年には閉鎖されます。

閉鎖された墓地にあった名士たちのお墓は、中央墓地へ移され、音楽家なら、ベートーベンとシューベルトが、現シューベルト公園、旧ヴェーリンク村墓地にオリジナルの墓石を残したまま、亡骸のみが中央墓地へ1888年に移されました。

亡骸の位置がわからないモーツアルトは、モーツアルト没後100年の1891年に墓碑だけが中央墓地に移されました。

中央墓地が開かれた1874年の後、1897年にウィーンで没したブラームスや、1899年にウィーンで没したヨハン・シュトラウスも同区画に葬られたのが現在の中央墓地ミュージシャンの名誉区画「32A」です。

第三等級という最下等の葬儀で5遺体の共同墓穴に放り込まれたモーツアルト埋葬の場所は、今となっては「このあたりだろう」程度しかわからず、聖マルクス墓地のどこかにモーツアルトの遺体が眠っていると考えられてます。

この小文を愛弟子であり頼りがいのある仕事の相棒だった
故Fr.Mas.Yukio YAMAZAKI-MOLNARさんへ捧げます。

過去に自宅図書室の書籍を整理破棄してしまい、
長年蓄積した記憶をまとめるのが大変でした。
間違いは指摘ください。2018年春、高崎守弘