トップページ武田倫子の 「行った・見た・聴いた」モーツァルトが持っていたリズム

モーツァルトが持っていたリズム

 人間には、それぞれ生まれつきのリズムがあるようだ。歩くテンポや会話の速度。物事をするタイミング。思考する時もそれによって変化してくる。以前、「第九交響曲」を聴いていた時、ベートーヴェンとの創作過程の違いなども、そこから感じた事があったが、このスピード感からも天才と思うのがもーツァルト。どんな生き方のテンポであったのか。と興味が尽きない。

 12月5日に没。シュテファン大寺院の外側、十字架礼拝堂にて3等級の葬式に終わったが、コンスタンツェとの結婚式は、同、内陣右側のエリギウス礼拝堂だった。冬に雪化粧したウイーンの街を歩いていると、その静寂さの中からそこを駆けてゆく彼の軽快な靴音が、石畳にこだまして来るような気がする。

 モーツァルトの曲を演奏したり、歌ったりした人は、もうその音楽のツボにはまってしまうと、彼自身に操られている。という風な経験をした事はないだろうか。それだけにその演奏は難しい。今の世の中、動きがどうテンポアップした所で、ヴォルフガングが本能的に持っていた、この<速さ>には適わない。(一個一個の音が独自に遊んでいて、そして全体が一つに形成されているその音の粒子のようなもの)かつての名指揮者、カール・ベームが、特有のゆったりとしたテンポでモーツァルトの持つ妙味を聴かせたが、実際の時間では計れない、モーツァルトのリズムがあった。

 ところで日本人の場合、実際の生活の中でこのテンポが、早いようでいて遅い面があるようだ。急か急かしている割りにはどこか、だらだらと遅くなる場合があって、歩き方や話し方などにもよく出ているように思う。一定のリズムとか、考えられた中庸のリズムが私達は苦手なのかもしれない。<落ち着いた中からの速度>とでも言えばよいだろうか。歌手のF・ディースカウ氏が「日本人の声のビブラートは、ヨーロッパの人々の声よりゆっくりしている」。と語っていたのが印象に残り、他の面でも共通しているように感じられた。

 けれど日本には、能楽、歌舞伎、日本舞踊など、そこに流れている日本独自のリズムがあり、その変拍子と間の呼吸は、私達の生活から生まれてきたものだから、ぴったりと気持ちに収まる面がある。これは大切に伝えてゆかなくてはならないし、またその中から、学ぶべき事がたくさんある。

 さて、「フィガロの結婚」は、言葉の編み出すテンポと音楽とのつながりが、とてもおもしろい。日常生活の中でも西洋人は、こういうテンポに乗せての会話の演出が上手いな、と感心する事がよくある。それは社交上だけではなく、人と人とをつなぐ潤滑油のような役目を果たすように思う。モーツァルトを聴かせると、<植物の育ちがよくなる>という実例も、生命に基づくこのリズムが関連しているからではないだろうか。

 日常生活で、多忙という方々でも普段のリズムを少し変えてみるだけで発見があるかもしれない。同じ事を話すのにも、そのテンポに気を配るだけでも、相手が受ける印象は変わるので、リズムから見直してゆくのも、一つの何かの解決方法になるのでは。とモーツァルトを聴きながらこんな事を想った。

2003年12月 武田倫子