トップページ武田倫子の 「行った・見た・聴いた」筆跡遊び

筆跡遊び

 その人を表す特徴の一つに文字があって、これがまた、なかなかおもしろい。表情や言葉遣いもさる事ながら、表面からは読み取る事の出来ない人間の側面は、それだけに心に、直に響く事があり、筆跡は如実にその人を物語っている。

 前回に続き、チェコのクラトヴィー古文書館では、青山光子・遺書のコピーを目にする事が出来た。卒中の後遺症により、左手で書かれたこの字には思いの丈が出ていて、その気迫に押されながら、つい見入ってしまった。相続はオルガ一人に指定し、自分を顧みなかった他の子供達には、<無し>という所なぞ、しっかり線まで引いてあり、いささか恨みがましさも感じられたが、きれい事ではなく

一個の人間として見た場合、その人間の「根」の部分が出ていて、この強さなどは、彼女が歳とってからの方が、俄然おもしろい。

 以前、ウイーンの国立古文書館で、マリア・テレージア時代とフランツ・ヨーゼフ時代の記録を見る機会があった。前者は、字に籠められた勢いがあり、力強いその時代が立ち昇って来るようだった。対して後者では、多少おざなりに書かれた官僚主義の一端を垣間見る思いがして、行間を通じて、庶民の表には出せぬ、当時の人間の、声なき声が聞こえて来そうな気がした。

 筆跡遊びは 謎解きのようで興をそそられる。マリー・アントワネットの直筆では「おや?」といい方にイメージが変わった事があったし、作曲家の中ではレオシュ・ヤナーチェクの文字が大層美しかった。日本の戦国時代の武将達の胆が座った個性的な文字からは、人生を教えられる。現在でも、達筆に任せて一人よがりで油断のある字もあれば、稚拙であっても、素朴で飾らぬ心情が伝わる字もある。なぜか常に斜めに書く癖の人も多い。ごまかしの効かない手蹟は、そのリズムやスピード感により、また各々の字の持っているいるたたずまいからも、その書かれている内容以前に、いろいろと伝わって来る。

 メール通信が当たり前となってしまった昨今、この便利さは到底、否めぬものの筆跡によって、その人物の器を量り、自らを省みるという事も失せてしまった。

 母国には書道という素晴らしい文化があり、それを通じて幾多の芸術を生み出して来た。時代が進むほどに、正確な日本語と共に、精神性の現われる文字も大切にして欲しい、と願ってやまない。

2005年2月武田倫子