トップページ武田倫子の 「行った・見た・聴いた」画家アルフォンス・ムハの故郷を訪ねて

画家アルフォンス・ムハの故郷を訪ねて

 さわやかな季節の旅の計画に<地図遊び>は如何?。その土地の特徴を見ながら練るプランは、空想が湧いて、旅行計画の楽しさが倍増して来る。

 ヨーロッパ全体が、他民族との戦いの歴史であり、主要都市は防衛のため要塞が築かれていたのに比較して、祖国日本は、守られている本人達には全く気付かない、海という巨大な<濠>に囲まれているような国ではないだろうか。ナポレオンにとっても難しかった、険しいアルプス山脈は、自然の防波堤となるが、ハンガリー平原等は容易にトルコから浸入され、占領され易かった。今の中欧は、特に宗教戦争と弾圧を中心に<地の利>を念頭に入れてから地図を見ていると、面白さが尽きぬ所。そこでどのような人間のドラマが展開して行ったのだろう。

 現在、6月1日まではベルヴェデーレ下宮では、「アルフォンス・ムハ展」が開催されている。 ムハはプラハの芸術アカデミーには入学を拒否され、ウイーンでは2年間、舞台装飾家として働いてた時期もあり不遇の時を経て、一躍彼の名前を有名にしたのは、舞台女優サラ・ベルナールの「ジスモンダ」のポスターを手がけた事による。元々は他の画家であった所を、都合で彼になった事が幸運をもたらした。そのパリで活躍したフランス風の<ムュシャ>で呼ばれる事が多い。

 プラハには、ムハ美術館があり多くの日本人も訪れているが、今ひとつ彼の力量が感じられる作品を見たく思っていた。彼はアメリカで、スメタナの<我が祖国>を聴き、さらに民族意識に目覚めたと言われているが、その思いが込められた、「スラブ叙情詩」を見に、モラフスキー・クルムロフと、生誕地のイヴァンチッツェにゆこう、と思いついたのはチェコの地図を見てからで、ウイーンから北上してゆけば、ローカル列車とバスで可能だ。オーストリアのレッツよりズノイモで乗り換え、地元のバスを使えば,3時間ほどで到着。

 訪れたのはある4月のある一日、この道中は,やわらかいみどりの丘陵地帯にたんぽぽや山桜が映えて、美しい景色であった。平野では春を待ち兼ねたかのように、若い野うさぎが飛び跳ねていて、藪の中には雉が見えたりもした。おそらくはムハが少年時代を過ごした頃の風景のままなのだろう。

 ムハが16年間を費やした、この大作「スラブ抒情詩」20枚のパネルは、テンペラと細部には絵の具を使って描かれ、モラフスキー・クルムロフの城館の中に展示されている。ポスターなどで知られている彼の他作品とは違い、何とも構成の見事な,民族を謳い上げたスケールの大きさには圧倒された。1時間ほどかけて鑑賞した後は、オペラを見終わったような気分だった。

 スラヴ人達の迫害の歴史に融合された血とロマン。そして誇りには、彼が命をかけて言いたかった事があまねく表現されていて、気骨のある人物像も伝わり、実際の歴史書よりも無言で迫って来る。シャガールの絵と同じように、人が宙に浮いている手法は、独特のイメージと効果をもたらしている。花と植物の配されたアール・ヌーヴォ様式に柔らかさと夢が与えられ、叙情が添えられている。登場人物の女性の個性的な、この目の表情。全体的に淡く、溶けるようでありながらも、ぐっと渋く、その中に光る鋭さには唸ってしまった。

 此処より、10キロほどの生誕地イバンチッツェでは,元のデッサンを何枚か見る事も可能。著名な画家はどの人も、デッサン力は素晴らしいけれど、それでもこのムハのように、内側から滲み出るようなスケッチは見た事がなく、この綿密さと大胆さにより、あの作品が完成していったことが頷けて、絵を知る上で、たいへん勉強になった。デスマスクや手型もあったが、この手が動けば美しい絵が生まれそうな雰囲気が残っている。「それぞれの民族には、独自の言語があるように独自の芸術がある。それは民族全体の遺産である」。ームハの言葉ー

 古来、どれだけの膨大な歴史書が編まれてきた事だろう。過去の歴史を知ることにより、未来 を創ってゆける。そのためにも、わが国においても同様に、本に書かれている事ばかりを、鵜呑みにせぬよう、活字にごまかされぬよう、多方面から見てゆく事も必要ではないだろうか。

2009年3月たけだのりこ