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2001/04/01

ウィーン人口増加とフランツ・ヨセフ皇帝

先日のウィーン市長選挙では、現職のホイプルさんが大勝で、社民党路線を多くのウィーン市民が選びました。ウィーンの各アパートに配達される「ウィーン広報/wein.at」もこれまでと同じで、雰囲気は変わらないでしょう。

そのウィーン広報に今年(2001)は市勢調査が5月2-31日にかけて行われると掲示されてました。市勢調査の説明にはマリア・テレジアが始めてからの現在に至る調査記録も掲載されてました。

皇帝が抱えた問題の内の一つ、ウィーン人口増加

この数字の推移を見てみると、今世紀初頭・世紀末と言われた頃の人口は今よりもはるかに大きかったことがわかります。ウィーンの人口増加が特に大きかったのは19世紀後半のことで、現在のウィーンの街並みが確定した頃と一致します。

そのときの皇帝は68年間もの長い帝位が続いたフランツ・ヨセフ皇帝でした。土木工事の皇帝と呼ばれるフランツ・ヨセフ皇帝の在位中にウィーンの人口が5倍に膨れ上がり、皇帝はその対応に迫られれたことがわかります。皇帝在位中にウィーンの市街地が拡大したことを考慮しても、彼の在位中に2-3階建てだった建物が、一気に5-6階建てになったことになります。

この人口の爆発的な増加は様々な問題を引き起こし、その一つが、19世紀前半当時ウィーンをぐるりと取り囲んでいた「リニエンヴァル城壁/Linienwall(独)」と、旧市街地を取り巻く直径1キロ程度の「リンク城壁/Wiener Stadtmauern(独)」に点々とあった小さな城門からの出入りが、人口の拡大によって、混雑・渋滞したことでした。

帝都の経済活動停滞は、外国からの侵略抑制に影響が出ますから国家存亡の危機です。早急な対応が必要になりましたが、西と北に「ウィーンの森」、東に川幅5キロもの「ドナウ川」、南には「ウィーンの丘」という、外からの攻撃に強固なウィーンの地理条件が障害となり、拡大した市街地に対する都市計画には制約ありました。

しかし、本来は洪水の危険のある地域への住居建造が進んだのもあり、皇帝はついにドナウ川の大がかりな河川工事を決断。さらに人口増加からの水不足は深刻な社会問題となり、不衛生な水事情により疫病が流行、その解決策として水道橋の建設を着手します。それでも水不足は解消されず、その30数年後には2本目の水道橋を建設することになります。

市勢調査の推移を見ると、1840年代に40万程度だったウィーンの人口は、20世紀にはいると220万を超えてます。人口増加による墓地不足の解消も急を要しました。しかし、それまでの墓地を拡大したところで焼け石に水でした。火葬の習慣がないカトリックの社会で、遺体が入った棺桶を山積みにするのは、衛生上の問題がありました。将来を見据えた結果、市街地から遠く離れたウィーン郊外に巨大な墓地センター「中央墓地」が開かれました。

その他、帝都ウィーンを中心とした鉄道網、道路の整備。より住み易い都市の実現のために街路樹・公園・緑地帯の整備、また、それら全てを計画・実行するための大きな市庁舎の建設も必要です。

皇帝フランツ・ヨーゼフは多くの問題に次々に直面し、対応に追われ続けます。当然ながら、皇帝の一目惚れによりウィーンの宮廷に迎えられた皇后エリザベートは、伝統あるハプスブルクの巨大な宮廷でたった1人でした。「朕は国家の僕である」とは、崩御の前日まで公務に忙殺され続けたフランツ・ヨセフ皇帝の言葉でした。

関連項目:
フランツ・ヨセフ皇帝の無声ビデオ
ウィーンの人口
西暦
人数
1754175403
1800231949
1815-6ウィーン会議
1840377601
1848皇帝戴冠
1880725658
19001674957
19102031498
1916皇帝崩御
1918一次大戦敗戦
19201841326
19341874130
19391929976
1945二次大戦敗戦
19511766102
1955四国支配終了
19611627566
19711614841
19811531346
19911539848