トップページウィーン市内の散策ウィーン旧市街地の徒歩観光ケルンテン通りとシュトック・イム・アイゼン広場

2008/03/18

ウィーン旧市街地の観光5/5:オペラ座からシュテファン

関連項目:
1/5:ザッハーホテルとザッハートルテ
2/5:カフェーモーツアルトとティロラーホーフ
3/5:ロプコヴィッツ宮殿とカプチーナーグルフト
4/5:シュヴァルツェンベルク宮殿と皇帝賛歌

ウィーンの目抜き通りケルントナー通り

ノイアーマルクトを後にしてすぐ横の歩行者天国のケルンテン通りに出ると、ウィーンの銀座通りだけあって多くの人で賑わっています。この通りは1974年の地下鉄U1号線開通時にウィーン最初の歩行者天国とされたもので、早朝深夜以外は車の通行が禁止されてます。有名店や夏の路上カフェが並び、ウィーンで最もストリート・ミュージシャンの多い通りでもあります。このケルントナーシュトラーセの呼び名は、ウィーン旧市街地中心シュテファン寺院からケルンテン地方に向かった通りを1776年からケルンテン通りと呼んだことからくるそうです(古くは、strata Carinthianorum 1257、Chernerstraz 1300)。

アドルフ・ロースのアメリカンバー

このケルンテン通りをシュテファン寺院方向へ移動して、左1本目のケルンテン通り最後の左に伸びる通りに入りましょう(ここもケルンテン通りと呼ぶ)。その数十メートルの短い通りに建築家アドルフ・ロースの作品 ⑫ アメリカンバー(独)(1909)があります。このアメリカンバーは一時期改築されたものの、その後オリジナルに戻して修復されてます。ウィーンから始まった近代建築黎明期を彷彿とさせる、アドルフ・ロースらしい、不必要な装飾を除いた機能的で美しいフロントと内装を今でも見ることができるのは幸いです。

シュトック・イム・アイゼン広場

鉄の木株伝説 さて、歩行者天国に戻りましょう。ケルンテン通りの終わりはシュトック・イム・アイゼン広場です。この広場は1866年まではグラーベン通りとも建物によって隔たれ、グラーベン通りとは細い通りで繋がる広場でした。かつてあった2つの広場を隔てていた建物が取り払われ、奥に広がるシュテファン広場の墓地も閉鎖され更地になってしまい、どこからが分かれ目なのかはっきりとしなくなってます。

中世時代、シュトック・イム・アイゼン広場には先ずパン市場が開かれたそうです。パン屋はよほど大きさをごまかしたらしく、シュテファン寺院正面入口にパンの大きさを決めた「大きさの原基」という言い伝えの石版が残っています(史実は扉留め金の石)。パン屋の刑は、大抵の場合ドナウ川の水攻め刑だったそうですが、このパン市場広場でパン屋の十字架刑が行なわれたこともあったと伝えられてます。パン市場はその後、馬市場に変えられ、13世紀末には旧市街地にその名が残る「乗馬( Renn )通り」に馬市場が移されたらしいです。1303年と08年の記録には、この広場が旧馬市場と記されています。

シュトック・イム・アイゼン…鉄の木

その広場の名前となったグロテスクな ⑬ シュトック・イム・アイゼン(鉄の木株)は、現在ケルンテン通りとグラーベン通りの角にあり、多くの本に紹介されてます。その角の建物のグラーベン側の入口には、よく知られる言い伝えを表わすルドルフ・ヴァイアーの素晴らしい彫刻も見られます。このトウヒの木はクロスターノイブルクからウィーンにオーストリアの都が遷都される1156年よりも前、すなわち今の旧市街地よりもウィーンの街が小さかった頃に街外れの目印の木であったらしいです。これが初めて書籍に出てくるのは1533年です。言い伝えは様々で、良い錠前が作れるよう、もしくは、悪魔のそそのかしから救われるように錠前職人が願いを込めて釘を打ち付けた結果、鉄の釘だらけになった、等。

その広場を過ぎると旧市街地の真ん中、いよいよこの散策終着点シュテファン寺院に到着です。

関連項目:
シュテファン大聖堂の日本語ツアー
1997年に出版されたウィーン観光詳細ガイドブック(絶版)のために1995年に執筆した文章を公開
高崎守弘