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1997/07/02-2021/07/18更新

シューベルトとウィーン

関連項目:
中央墓地
シューベルト教会の地図(洗礼の教会)
関連リンク:
シューベルトの生家(独/英)
  • シューベルトの肖像画、眼鏡、初恋女性肖像画、シューベルティアーデ、ギター(最初期のギター)
シューベルト最期の家(独/英)
  • 地下鉄U4号線 Kettenbrueckengasse から徒歩数分

シューベルトの生涯

シューベルトはウィーンで生まれ、ウィーン少年合唱団で歌い、ウィーンで活躍、ウィーンで没した生粋のウィーン人。身長低く、小太り、ヘアースタイルを気にせず、強度の近視でした。ロマンチックなシューベルトは初恋に敗れ、生涯結婚しませんでした。

シューベルトの生涯は31才と短かいものでした。10年ちょっとの作曲期間中に1000曲以上の美しい感動的な曲を作曲してます。シューベルトの作品は親しみやすく、魔王、菩提樹、セレナーデ、子守り歌、美しいピアノ作品、未完成交響曲等などは一般によく知られてます。ギターを良く弾き、ピアノの演奏技術が不十分であったためか、演奏は大ホールを好まず、シューベルティアーデの仲間の中で演奏しました。友人には恵まれたようです。

「音楽家以外の何者でもなくこの世に生を受けた」という彼の言葉は有名で、夜寝る暇を惜しんで作曲したそうです。作曲しながら寝て、寝ながら作曲したので、いつも眼鏡をかけたまま寝ました。

ベートーベンを崇拝し、ベートーベンの病床を見舞ったシューベルトは、まもなくベートーベンが没すると、彼の棺を肩に乗せて埋葬墓地まで歩いた内の一人でした。翌年には彼自身の棺が、尊敬するベートーベンの横に向かうことになりました。

ウィーン市内のシューベルト関連観光名所は、上記「関連リンク」の2ヶ所のシューベルト記念館、ハウス・オブ・ミュージック、生家の近くに「洗礼を受けた教会(記念版)」(上記「関連項目」のリンク参照)、ウィーン歴史博物館(独/英)に当時のウィーン関連の展示、その他このページ下方の記念碑リスト参照。

シューベルトは(現在の)シューベルト公園に葬られ、中央墓地の整備が進む1888年にシューベルトのお墓がベートーベンと共に移されました。シューベルトの願いを汲み、中央墓地でもシューベルトとベートーベンはすぐ隣です。なお、中央墓地のシューベルトの墓石は、楽友協会をデザインした芸術家の作品です。シューベルトのオリジナルの墓石(のみ)は、ベートーベンのオリジナル墓石と並んで、今でもシューベルト公園に残されてます。写真でよく知られるシューベルト像は、リンク通り沿いの市立公園にあります。

シューベルトの年表

以下に覚え書きを公開します。シューベルトの生涯が一望できます。間違いは指摘ください。

Franz Peter Schubert 洗礼名含む

15年間のみという短い期間に多くの作品。

	交響曲		9(スケッチを含めると13)
	弦楽4重奏曲	20以上
	ピアノソナタ	24前後(ほぼ半数が未完)
	ミサ曲		6
	舞台作品	11(未完作を含め19)
	多くの歌曲	600 以上 ?

	歌曲王
	Schubert ==> Schuman ==> Brahms ==> H.Wolf
	ドイツリートの生みの親。

	祖父はモラヴィア地方Neudorfの裁判官。息子2人をウィーンに出す。
	父親 Franz Thetdor Florian (1763-1830)は教員をしていた兄を手伝う。

1785	父 シュレジア地方出身の Maria Elisabeth Katharina Vietz と結婚。
	ポーランド南西部の錠前師の娘。7つ年長。

1786	2区からNussdorf Linie 42 (10年後に72番地に改正)
	現在の表示は Nussdorfer Str.54番地 の
	Zum Roten Kreps館に引っ越してくる。父独立。
		1908	ウィーン市が買い取る。
		1912	Open
		1969	に復元工事。これが現在のSchubert記念館
	一階を教場二階を家族の住居とする。

1791	モーツアルト没

1797	1月13日生
	12番目の子。その時点で3番目の生きのびた子供。
	16年間 14人中5人生存。その4番目。
		長兄 Ignaz (1785-1844)は父の学校を継ぐ。
		次兄 Ferdinand Lukas (1794-1859)は教員,教会の合唱指揮者。
		すぐ上の兄 Franz Karl (1795-1804) は風景画家
		当人も父の名 Franz を継ぐ。
		妹 Marie Marie Theresia (1801-1878)
			異母兄弟 Josefa (1815-1861)
			異母兄弟 Andreas (1823-1893)
	35 m2 弱のアパート=決して裕福ではない。

1801	家族は Himmelpfolt Grund, Saeulengasse 3「黒馬館」に引っ越す。
	ピアノがなかった!

1804	オーストリア帝国。

1805	ナポレオン ウィーン。

1806	神聖ローマ帝国解散。

1809	ナポレオン ウィーン。
	ハイドン没。

1808-	全寮制 校長が宮廷学長サリエリ(1750-1825)の 1803開校の神学校
-1813	K+K 私立コンヴィクト入学試験合格。
	音楽の授業を持ったのは宮廷オルガニストのルツィツカ。
	ここで Schubertiade の Spaun と知り合う。
	Spaun はルツィツカが設立したコンヴィクトオーケストラの
	第2ヴァイオリン主席だった。

1812	母没。
1813	ウィーン近郊の商人の娘 Anna Kleyenboeck(1783-1860)と父再婚。

1812-	から2年 Antonio SALIERI 1750-1825 の自宅で
-1814	Privatuntrricht を週2回無報酬で受ける。

1813	秋にコンヴィクトから家族の家に戻る。
	家にピアノが無かったため ギターで作曲。
	Schubertのギターが記念館に展示されている。
	徴兵検査の勧告を3回受けて 父の意を受け兄と同じように
	助教員となるために そこから Annagasse 3a の師範学校に通う。
1814	8月かろうじて試験及第。父の意を受け すぐ父の学校の助教員となる。

1814-	ウィーン会議
-1815

1814	10月19日「グレートヒェン」
1815	18才「魔王」6年後 1821,4月カッピ&ディアベリ社から出版。
1816	4月前2曲と「野ばら」その他をSpaunが中心となり
	ゲーテに手紙付きで献呈。ゲーテは常と同じく送り返してくる。

1822	ウェーバ 「魔弾の射手」
	この年イタリアからロッシーニ来る。センセーション!

1822	10月 未完成交響曲

1823	5月入院。梅毒??

1824-	兄 Ferdinand がAnnnagasse 3a の師範学校の校長。
-1851
	ウィンナーワルツが流行し始める。

1815-	18才から2年の間だけでも 教職の合間を見つけて
		Symphonie	4
		Streichquartett 2
		Streichtrio D-Dur in einem Satz
		Violin Konzert in D-Dur
		Klavierstueke   Zahlreich
		Chorwerke       auch
		Messe           3
		Lieder          250

	身長 157 cm
	小太りで その上強度の近視。
	生涯 6-13時まで毎日7時間作曲をした。
	規則的な生活とは無縁。
	髪の手入れを忘れ
	食事も不規則。
	暖炉の薪が燃え尽き。
	眼鏡をしたまま寝て 寝ながら作曲した。
		Ich bin fuer nichts anderes
		als das Komponieren auf die Welt gekommen...

	die Schubertiaden(独)
		Joseph von spaun(1788-1865)(独)
		Franz von Schober(1796-1865)
			1815からの友人。文芸愛好家。作家。俳優。
			後にハンガリーでリストの秘書になる。
		Franz Grillparzer(1791-1872)(独)
			ウィーン歴史博物館に住居展示
		Moritz von schwind(1804-71)
			オペラ座バルコニー
		Johan Michael Voegl(1768-1840)
			宮廷バス歌手。1817,2か3月に知り合う。

1827	尊敬する Beethoven 没。棺を肩に担ぐ。

1828	兄 Ferdinand の元に最後の引っ越しをする。
	音楽家以外の何者でもなかった巨匠 Schubret 11月19日午後3時没。
	直接の死因は腸チフス?水銀中毒?しかし梅毒ではない!
	1826頃には梅毒完治。入浴後の水銀軟膏による治療により当時治せた。
	2回の遺体発掘調査で骨や頭蓋骨には梅毒による変性が見つかっていない。
	「Beethovenの横に葬ってほしい」という言葉により
	Waehringer Ortsfriedhof の Beethoven の並びに葬られる。
	先ず Margareten 聖堂区教会 そして
	葬られる先の Waehringer 教会で2回目の葬式。


1830	Waehringer Ortsfriedhof(独) に墓石建つ。

1863	遺体発掘調査
1888	Beethoven と共に中央墓地に移される。
	このときも遺体発掘調査

	Beethovenと共にオリジナルの墓石は 現 Schubert Park。
	中央墓地の墓石は T.von Hansen 作。

ウィーン市内のシューベルト記念碑

Geburtshaus
    9,Nussdorfer Strasse 54 , Tel : 317 36 01
    Taeglich auser Montag von 9 bis 12:15 u. 13 bis 16:30 Uhr.
    (An allen Freitagen auser an Feiertagen bis 12 Uhr gratis zugaenglich)

Sterbezimmer
    4,Kettenbrueckengasse 6 , Tel : 581 67 30
    Oefnungszeiten wie im Geburtshaus.

Brunnen
    9,Ecke Alserbachstr./Liechtensteinstrasse
    Angefertigt von Theodor Stundl u. Franz Matuschek im Jahr 1928

Denkmal
    1,Stadtpark
    Schubert mit Notenheft u. Bleistift,
    geformt von Karl Kundmann,aus dem Jahre 1872.

Zum svhwarzen Roessel (Gedenktafel)
    9,Saeulengasse 3
    Nachdem Schuberts Vater 1801 das haus [Zum schwarzen Roessel] erwarb,
    zog die Familie dorthin.Der Komponist drueckte hier die Schulbank.

Lichtentaler Pfarrkirche
    9,Marktgasse 40
    Hier wurde Schubert getauft
    und machte seine erste tiefe Bekanntschaft mit der Musik.

Goettweiger Hof
    1,Spiegelgasse 9
    Hier wohnte Schubert von 1822 bis 1823 bei seinem Freund Franz von Schober.
    Im Goettweiger Hof soll auch die erste Schubertiade stattgefunden haben.

Grabdenkmal
    18,Schubertpark
    Schuberts erste Ruhestaette mit einem Grabmal des Bildhauer Alois Dialer.

Ehrengrab
    11,Zentralfriedhof
    Simmeringer Hauptstrasse 234, 2.Tor, Gruppe 32A/28
    Aus dem Jahr 1888,angefertigt von Karl Kundmann und Theophil Hansen.
1997高崎守弘