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2003/11/30-2023/03/04更新

オーストリアの歴史とカトリック

このページの内容:
1.ヨーロッパのキリスト教
2.西ローマ帝国と東ローマ帝国のキリスト教
3.カトリックとプロテスタント
4.カトリックを背景としたハプスブルク帝国
5.オーストリアの歴史とカトリック
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関連リンク:
キリスト教の宗派について(日)
カトリック教会(日)

1.ヨーロッパのキリスト教

カトリックはキリスト教の一宗派です。総本山がローマにあるため、ローマカトリックと呼ばれたり、ヨーロッパ東方のキリスト教である正教(東方教会)に対して西方教会と呼ばれることもあります。

イエスという人を救世主/キリスト/神と信じるキリスト教は、元々は中近東で生まれた宗教でした。中近東からヨーロッパへ伝えられた当初はヨーロッパで受け容れられず弾圧されました。

313年コンスタンティヌス1世とリキニウス帝の連名でミラノ勅令が出され、古代ローマ帝国で公認されてからは一気に帝国内にひろがり、380年にはテオドシウス帝によって帝国の国教に定められてます。その15年後、395年には古代ローマ帝国が東西に分離します。

この当時の古代ローマ帝国内には5つの有力なキリスト教派があったそうです。これを「五本山」と呼び、1)ローマ教会(帝国首都)、2)コンスタンチノープル教会(帝国第二首都)、3)アンティオキア教会(シリア州都)、4)エリサレム教会(ユダヤ州都)、5)アレクサンドリア教会(エジプト州都) 、その他アルメニア教会、エチオピアのアビシニア教会などだったそうです。7世紀以降はイスラム教の台頭により、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア 、アルメニア、エチオピア教会が勢力を失ってゆき、残ったローマ教会とコンスタンチノープル教会が覇権を争うようになります。

2.西ローマ帝国と東ローマ帝国のキリスト教

キリスト教を国教とした古代ローマ帝国は、フン族がウィーンから東に広がる平野地帯に来た20年後、395年に東西に分離し、476年に西ローマ帝国が滅んだとされてます。これがヨーロッパで長く続いた中世の混乱の始まりです。

西ローマ帝国が崩壊して約一千年後の1453年には東ローマ帝国が滅びます。イスラム教徒オスマントルコ軍による東ローマ帝国の都コンスタンチノープルの陥落は、長い年月を経て今でも語り継がれるほど壮絶を極めたそうです。

古代ローマ帝国で公認されたキリスト教は、西ローマ帝国崩壊後も政治活動を成功させ、ヨーロッパ内に浸透してゆきます。そんな中で東西のキリスト教は、教義の解釈や典礼の対立により1054年にはローマ教皇とコンスタンチノープル総主教(東ローマ帝国)が相互破門しあい、東ローマ帝国のキリスト教をオーソドックス/正教、西ローマ帝国(-476)崩壊後にその地域に浸透したキリスト教は後にカトリック/普遍的と呼ぶようになったそうです。

カトリックと正教の違いは様々なところに見いだされますが、キリスト教の大原則と考えられる三位一体をカトリックは「大いなる神・子なる神キリスト・聖霊」、正教は「神・子・聖霊を取りまとめたのがキリスト」と考え、この解釈の違いがキリスト教の分裂の原因になったとも思われます。

ローマに総本山を置くカトリックは、世俗権力と繋がりヨーロッパ中に勢力を拡げ、後にはハプスブルクによって新教に対する反宗教改革運動でアメリカ大陸やアジアに布教されて行くことになります。

正教の方は、東ローマ帝国が1453年にイスラム教徒オスマントルコにより首都が滅ぼされてからは中心地が無くなり、東方教会として国や地域ごとにギリシア正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、セルビア正教会、日本正教会など個々の組織を持つようになります。

3.カトリックとプロテスタント

ヨーロッパでは後に免罪符などの問題でカトリックにプロテスト/抗議したマルチン・ルター/Martin Luther(1483-1546)によりプロテスタントと言われる新教の基礎が置かれます。30年戦争へと向かう宗教改革の始まりです。ローマカトリックはこの新教に対して旧教とも呼ばれることがあります。

4.カトリックを背景としたハプスブルク帝国

一般にウィーンと言えばハプスブルク、ハプスブルクと言えばウィーンと考えられがちのハプスブルク家は、今でもチューリッヒの西にハーピヒッ・ブルク/Habichtsburgの廃墟(一部レストランと博物館)が残っており、元々はアールガウ(スイス・南西ドイツ)の領主でした。13世紀/鎌倉時代からは神聖ローマ皇帝となり、スイスからウィーンに居を移してます。

ローマ法王により冠を受けた神聖ローマ皇帝は、カトリックの神から他民族の王/皇帝として認められ、「汝戦争せよ、栄光あるハプスブルクは結婚する」の言葉通り、結婚政策によってイギリスとフランス以外のほとんどのヨーロッパを領地とし、言葉も民族も違う国々でカトリックを擁護し続けました。

ハプスブルク家は、この16世紀からの結婚政策で海運のオランダやスペインを持ち、反宗教改革のもとに地球にカトリックの十字架を立てるべく「日の暮れることのない帝国」を築いてゆくことになります。世界で一番多くの国で使われている言語がスペイン語であり、国連の公用6言語にスペイン語が入っているのは、ハプスブルク家の勢力圏が世界史上最大であった証でもあります。

ところで、新教が強いライン地方の風習だったクリスマスツリーは、カトリックのウィーンでは飾る風習が無かったようです。皇帝フランツⅡ(Ⅰ)世の弟、カール大公(英雄広場の騎馬像)のお嫁さんナッサウのヘンリエッテ/Henriette von Nassau(独)が新教であったことから、1816年12月24日に、その年に生まれた長女のために12本の蝋燭を灯したクリスマスツリーを自宅の宮殿(現Haus der Musik博物館)に飾ったのがウィーンのクリスマスツリーの始まりだそうです。

5.オーストリアの歴史とカトリック

この国オーストリアは、アジア民族を追い出しヨーロッパ民族の地になった中世時代から、オーストリア第一王朝バーベンベルク家も、オーストリア第二王朝ハプスブルク家も、カトリックの神を掲げて異教徒のアジア民族と戦い続けました。

オーストリアの民族は、ヨーロッパの他の国々と同じく6-7世紀頃の民族移動終わり頃に、バイエルン族(ババリア)が南ドイツとオーストリアに定住するようになったそうです。それ以来オーストリアはドイツ語圏になったとされてます。

オーストリアの東に位置するウィーンは、古代ローマ時代の後から中世半ばまでアジア民族が度々流入したために、アジア民族とヨーロッパ民族の所有がその都度入れ替わりました。

中世初期の頃は、ウィーンの西約200kmぐらいのドナウ支流エンス川あたりの地域までヨーロッパ勢力圏ともアジア勢力圏とも言えないような状態だったと考えられます。8世紀終わりに有名なカール大帝が、馬の鐙をヨーロッパに伝えたとされるアバール族をハンガリー大平原の方まで追いやり、東の辺境地(オーストマルク)を置きますが、しはらくすると、今度はアジア民族のマジャール(ハンガリー)族が入ってきます。

マジャール族は当時のヨーロッパでは無敵だったらしく、遠くはフランス、パリを経て、ピレネー山脈まで迫り、北はオランダ、南はイタリアまで足を伸ばしてます。軽快な騎兵を駆使してヨーロッパ中を蹂躙し、パリのシテ島がマジャール族に攻められた記録が残るのは興味深い話です。

その後、無敵と言われたマジャール族の騎兵も、レヒフェルト(995)の戦いでオットー大帝の装甲騎兵に敗れます。さらに、オーストリアの礎を築いたバーベンベルク家に圧迫され、現在のハンガリーまで後退します。ウィーンは、それ以降ゲルマン民族カトリックの地として発展を続け現在に至ってます。その間、ハンガリーは一千年前に初代の王イシュトヴァンにより民族が統一され、キリスト教(カトリック)が国教となってます。

関連リンク:
Wikipedia:イシュトヴァーン1世(日)
間違いは指摘ください。高崎守弘