1989/01/02-2021/07/18
エステルハーザ宮殿
ご注意:1989年の資料です。内部ガイド用にエステルハーザ宮殿の係員からドイツ語の説明書きをもらい、それに少し手を加えた覚え書きを公開します。エステルハージ家とハイドン
16C.末 | エステルハージーの家系はまだ下層の貴族階級だった。 |
1625 | 当時はまだハンガリーの一部分であった現在のルーマニアに属するトランシルバニアの反乱に対する功績により、 Nikolaus ESTERHAZYがハンガリーの国王代理の職を賜り、男爵の爵位を授かる。 |
1683 | オスマントルコ二度目のウィーンの包囲。 |
1681 | ノイジードラー湖畔一帯の 当時は現在よりもかなり大きかった湿地帯 (ハンガリー語で湿地=Fertoe)を所有領とし 当時はまだSuettoer(※1950参照)と 呼んだ場所に狩の御所を建てる。 |
1687 | トルコ戦の功績をPaul ESTERHAZYがハプスブルグ家の 神聖ローマ皇帝レオポルド一世に認められ侯爵(Fürst)に格上げられる。 エステルハージー家の家紋中央《 L 》の文字は、皇帝レオポルド一世の頭文字を表す。 |
1720 | Paulの息子Josepfがウィーンの建築家Anton Erhard MARTINELLIに Suettoerの新しい狩の御所を建てさせる。 |
1762 | Josephの次男Nikolausが後を継ぐ。(Paulの孫) 彼は贅沢好みなNikolausと呼ばれたが、 フランスに旅行したときに見たベルサイユ宮殿に憧れ、 敷地内のオペラハウス、人形劇場、音楽堂等を含め |
1762-66 | それまでの狩の御所の地Suettoerにエステルハーザ宮殿を建て、 ハンガリーのベルサイユと呼ばれるようになる。
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ハイドンの仕えていたエステルハージ家ニコラウス公は、1766年にフランスのヴェルサイユ宮殿を模した壮麗豪華な夏の離宮を、ノイジートラー湖畔の風光明媚な場所に建てた。この城はエステルハーザ宮と呼ばれ、はじめのうちは手狭であったため、管弦楽団の団員や召使いは家族を連れてきてはいけないことになっていた。楽員の中で家族の同居を許されていたのは、楽長ハイドンを含むわずか4人の音楽家だけに限られた。妻帯者には余分の俸給が支払われたが、多くの楽員たちは夏の間家族と別れてエステルハーザ宮に住むことになった。1772年の滞在は通常の6ヶ月を2ヶ月も上回った。楽員たちはハイドンに対して、この状態の解消を懇願した。ハイドンは、演奏している楽員が、ひとり、またひとりと、演奏を終えて楽器を片づけ、譜面台の蝋燭を消して退場してゆき、ごくわずかな人だけが残り寂しく演奏を続けていくという趣向の交響曲を作曲し、楽員たちの気持ちを表そうと考えた。調は、当時としては異例の寂しい嬰へ短調が選ばれた。この曲が実際に主君の前で演奏されると、ニコラス公はただちにその意を悟り、翌日には全員に休暇を与えた。これが「告別交響曲」の逸話である。この逸話は伝記作家グリージンガーとディースによって伝えられている。 | |
1773 | Maria THERESIA がエステルハーザ宮殿に来たときの言葉がそれを伝える。 「朕オペラを楽しまば エステルハーザに駆す。」 |
1784 | オペラ劇場(1768) 音楽堂(1769) 人形劇場(1773) その他、草庵、大噴水(滝?)等全て完成。 |
1790 | Nikolaus没により都がEisenstadtに移され、家具類がEisennstadtに移される。 それから100年間エステルハーザ宮殿は使われなくなり、歴史の桧舞台から降りる。 |
| ソ連軍による略奪。 大戦の為火事。天井が落ちる。 |
1950 | SuettoerとEsterhazaが一緒になり現在の地方自治体Fertödとなる。 |
1957 | 改修工事
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1959 | 大戦後初めて一般公開。 |
現在 | 博物館以外の部屋が職業訓練学校にあてられている。 |
1985 | エステルハージー没 |
現在 | (所有領地は地主としてはヨーロッパ最大の500000Ha) (EISENSTADTのエステルハージー城の蔵書は72000-74000冊。) |
エステルハーザ宮殿の内部観光(1989年の情報)
博物館(地上階と2階)開館時間:月曜日を除く8-17時、Tel.45 921
内部でははクツの上にスリッパを縛る。
内部の家具類は二次大戦でソ連兵に略奪され何も残らなかった。現在の展示物はハンガリー国内からの寄せ集め。
◆ 地 上 階 ====================== | |
赤の部屋 (Rote Salon) | ゴブラン(パリの本物。タピセリーではない!)の張られた椅子。 ロシアの大理石を使ったバロック時代のテーブル。 DELFT(オランダ)の2つの壷。 18Cベネチアの鏡。 |
茶の部屋 (Brauner -) | スペインのバロックのテーブルとレザーに描かれた装飾。 18Cのブロンズの燭台とバロックの時計。 ランプに作られたフランス製クリスタルの壷。 18C初頭のRegence-Stilのライオンの足のNieren-机。 |
青の部屋 (Blauer -) | 18C 当時はモダンであった中国風の壁絵。 二次大戦の後に壁板の下にあったStueckMarereiが見つかった。 右:真珠貝の象眼のタンス。 めずらしい日本製の漆に蒔き絵や石の象眼の家具。 2つの白磁。いずれも当時偽物が多かった中で本物の中国製。 |
真ん中の部屋 (Sala terrena) | 天井に"f N E"の文字。(Fürst Nikolaus Esterhazy) ここから庭に出ることができるので Stueckによる庭の植物のデザイン。 部屋内部の両方に噴水。 18cの頃は床下暖房があった。 |
ストーブの部屋 | 他の部屋から集められたストーブ。 床の板は地下のワイン蔵への入り口だった。 |
宮殿模型展示室 | 17c => 1720 => 1766 => 1799にオペラ座燃える。もう一度作り直す。1865に火事。 細長い建物にハイドンも住む。 道のむこうにU字型の建物に郵便局。(現レストラン/Gasthaus) 150人の近衛兵。 中国的な茶室もあった。 |
中国的な部屋 (角の部屋) | 2つの金魚鉢。 |
青の部屋 | 17Cの古い壁絵。 18C中国風。 板。 |
寝室 | 天井にキューピット。 この部屋で侯爵没。 |
◆ 隠し扉を通る ====================== | |
漆の間 | 一番お金のかかった部屋。
200年前の中国製。 100頭の牛 = 一枚の漆だった。
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◆ 上 階 ====================== | |
| 高さ10メートル。 |
ハイドン展示室 | 生後200年記念の展覧会の展示物。 |
角の部屋 | 左のMaria Esterha'zyの肖像画 |
*** | Palatin(独)として?Esterhazyが30年間。 |
*** | 机の上の壷は時計。 グリーンのはへレント3つ。 真ん中の物はストーブの上に置いて加湿機にした。 |
角の部屋 | 1920年の絵。Maria Esterhazy 1989スイスでその兄弟が没? その人がこの宮殿の所有者だった人。 |
*** | 会議室の椅子。ローニャインの城から移す。 |
大広間 | コンサートホール。 ゴブラン4枚。古い。??? フレスコはアポロン。 馬はどこから見てもこちらの方を見ている。(あたりまえ!) この天井は200年前の物。 かつては木で支えていたのを鉄骨に替えた。 200年前のフレスコを痛めないようにするのが大変だった。 昔はこの部屋のように全ての部屋に石膏の装飾かフレスコがあっ た。 |
角の部屋 | 時計は鼈甲の上の絵 = 金よりも高価だった。 ルネッサンスの家具。 |
*** | M.TheresiaとFranz Stephanの肖像画。 角に日本製の壷。 |
**** | ベッド等 |
角の部屋 | で終わり、出口、変なスリッパを返す。 |
1989年冬 高崎守弘