1999/05/20-2008/11/22
オスマントルコとウィーン
ウィーン観光にトルコ戦争の話は外すことができません。観光名所で知られるベルベデーレ宮殿は、オスマントルコの戦争で功績を知られるオイゲン公の別荘ですし、ウィーンで数多く見られる美しいバロック様式の教会は、オスマントルコの脅威が過ぎ去ったときに一気に建てられたものです。シェーンブルン宮殿もトルコ戦争の後です。オスマントルコとの対立はその後にもあり、モーツアルトのトルコ行進曲もその影響です。
観光でウィーンを訪れると、旧市街地の地理がわかりやすく助かります。ウィーンの旧市街地は、高くそびえるシュテファン寺院の尖塔を中心に、直径1キロの環状道路に囲まれてます。これは、人口増加と共に拡大するべきウィーンの市街地が、オスマントルコの脅威により、直径1キロの城壁の外へ拡大ができなかった名残でもあります。
トルコ戦争関連の展示は、ハプスブルク新王宮の一角を占める甲冑博物館で当時のハプスブルク家の立派な甲冑類や、当時のトルコ国境都市だったグラーツの武器庫(独/英) で世界最大の武器コレクションが見られます。その他、ベルベデーレ宮殿南方の軍事史博物館(独/英)、カール広場のウィーン歴史博物館(独/英) などでもトルコ戦争関連の歴史的な展示が見られます。
ウィーン関連オスマントルコの簡単な歴史年表
オスマントルコ成立 | |
1453 | ビザンチン帝国(東ローマ帝国)を滅ぼす。コンスタンチノープル(コンスタンチヌスが首都をおいたポリス)をイスタンブール(ギリシア語で「stin poli/都へ」の意)とする |
1456 | さらにその西のベオグラード(現セルビア)を攻めるが負ける。カトリックの異教徒に対する勝利の祝いとして突かれた正午の教会の鐘はこのときから始まる。 |
1490 | 1485年にウィーンをも脅かしたハンガリー民族最後の王マチャーシュ・コルビヌス没。ヤゲロ(ヤギュウォ)家がハンガリー王になる |
1571 | レパントの海戦でベネチア・スペインハプスブルク側勝利(神聖ローマ皇帝カールⅤ世) |
1526 | ハンガリー&ボヘミア王ラヨシュⅡ世がスレイマン1世によりモハチの戦いで殺され、ヤゲロ家断絶。 ハプスブルクの結婚政策により、書面上はハンガリー王国がハプスブルク領となる。 実際には西と北はハプスブルク、東はトランシルヴァニア出身の大貴族サーポヤイ・ヤーノシュ、中央部はオスマントルコの支配 |
1529 | 第1回ウィーン包囲。冬の天気で失敗 |
1541 | ブタペストがトルコ領となる。 これから1世紀半ハンガリー中央部はオスマントルコの支配となる。神聖ローマ帝国(ウィーン)はオスマントルコの防壁としての役を担う |
1683 | 第2回ウィーン包囲。ウィーン最大のハプスブルク・ルネサンス宮殿ノイエゲボイデ宮(上出画像)破壊。オイゲン公の活躍はじまる |
1686 | ブタペスト開放。オイゲン公の活躍! |
1689 | オイゲン公の活躍によってブタペストをオスマントルコから開放。(オイゲン公の騎馬像がブタペスト丘上の王宮前に見られる) |
1699 | カルロビッツの和約、これによりハプスブルクはトルコ戦に終止符を打つ。ウィーンの市街地がリンク城壁の外へと一気に拡大し、華麗なバロック建築が多く造られる。ウィーンをバロックの都と呼ぶのはこのため |
1723 | オイゲン公の夏の離宮ベルベデーレ宮殿完成(下宮1716-17、上宮1721-23) |
間違いは指摘ください。高崎守弘