ビーダーマイヤー様式/Biedermeier
ビーダーマイヤー様式の居心地の良い室内と、生活に密着した優雅さには誰しもが共感を覚えることでしょう。その流れを汲むユーゲントシュティルについて語られることがあっても、何故かビーダーマイヤーについては、特に日本では、ほとんど語られていません。様式/スタイルという発想からして捉え難い上に、その中身となると写真を順次提示してもらい講義でも受けない限り理解が難しいかも知れません。あまり難しく考えず、ウィーンにはこういうものもあり、現在も息づく古き良き時代のウィーンを知る上で避けて通れないことだという程度に理解していただければ幸いです。
1.ビーダーマイヤー様式の期間と語源
ウィーン会議後から3月革命までの間、1815-48年頃に中産階級が好んだ生活様式名。ビーダーマイヤーの名は、「ビーダーマン」と「ブンメルマイアー」の名を一緒に取りまとめ作られた架空人物名ゴットリープ・ビーダーマイヤー/Gottlieb Biedermaierから取られたそうです。
この架空人物は、1844-1944年に南ドイツ・ミュンヘンでBraun & Schneider社(独)出版の風刺週刊誌フリーゲンデ・ブレッター/Fliegende Blaetter(独)に、1850-57年のあいだ連載された風刺小説「Gedichte des Weiland Gottlieb Biedermaier」に登場する温厚な典型的中産階級の小学校教師ビーダーマイヤー氏。著者はドイツの判事ルートヴィヒ・アイヒロット/Ludwig Eichrodt(1827-1892)。
様式としてのビーダーマイヤーは、この小説中に描写された当時の小市民的な生活スタイルを指します。
- 関連リンク:
- Biedermeier(独)
- Biedermeier en Muziek(独)
- Ludwig Eichrodt: Vater des Biedermeier(独)
- Fliegende Blaetter - digital(独)
- ウィキペディア⇒ウィーン体制(日)
2.ビーダーマイヤーの時代背景
ビーダーマイヤー様式は、フランス革命後王侯貴族の時代が終わり市民の時代が訪れた頃の生活様式と考えられます。その頃は、遅れていたウィーンにも徐々に産業革命が浸透し、貧しい労働者階級が形成され、他方で富裕な市民階層も起きてます。日本では開国に向かって歴史が動いていたときでした。
この中産階級と呼ばれる市民階層には様々な人々が含まれ、零細商店営業主から、大企業家や銀行家など、いわゆるブルジョワ階級まで様々な階層の人々がいました。その階層の広さから、当時の中産階級の生活様式であるビーダーマイヤー様式の定義が甘味になってますが、小説の内容描写から様式の名が生まれたことを考えると、生活にある程度のゆとりのあるブルジョワ階級が好んだ生活空間を指すべきだろうと思われます。
3.ビーダーマイヤー様式とは
ビーダーマイヤー様式という言葉は、本来はその室内装飾による生活空間を表します。床・壁・天井とそこに置かれた家具・食器類、建築構造・外装、そして音楽の時代と言われたその当時にその空間で響いた音楽、ライムントやネストロイに代表される文学や劇、さらにその空間や社会で生活した人間にまで使われることがあります。
時代はフォアメルツ(3月革命前)と呼ばれる1815年のウィーン会議後から1848年の間を指すことが多く、広義にはマリアテレジアやその長男ヨゼフ2世の改革後から歴史主義時代(1830年頃から世紀末)までとも考えられます。
場所は帝都ウィーンを中心に、特に宰相(外相)メッテルニヒの圧力圏内、またはその影響範囲内を指すことになります。有能な外交官メッテルニヒは、ナポレオンと皇女マリールイーゼの政略結婚(1810)をはからい、「会議は踊る・されど進まず」と言われたウィーン会議の立役者功労者でした。宰相となってからは3月革命でイギリスに亡命するまで病弱な皇帝フェルディナンドに代わって、強大な権力を背景に、ウィーン体制といわれる旧体制を保持した「時の人」でした。
オーストリア皇帝フランツⅠ世(+1835)が病弱な息子フェルディナンド(皇帝1835-48)へ宛てた遺書:
意訳「メッテルニヒに任せれば大丈夫だ」
Uebertrage auf den Fuersten Metternich, meinen treuen Diener und Freund, das Vertrauen, welche ich waerend einer so langen Reiche von Jahren gewidmet habe, verrueckte nichts in den Grundlagen des Staaatsgebaeudes, regiere, veraendere nichts.
ビーダーマイヤー生活は、ウィーン体制下での市民の社会逃避が原因で、市民の興味が、プライベートな室内空間や路上スパイから解放された「自然」や笑って済まされる「舞台パーフォーマンス」に偏った結果の産物とも考えられるでしょう。ユーゲントシュティルを理解するのにビーダーマイヤーや歴史主義を避けて通ることができないのと同様に、ビーダーマイヤーを理解するのに産業革命とメッテルニヒのウィーン体制を避けることはできないでしょう。
- 関連リンク:
- グーグル ⇒ メッテルニヒ(日)
4.ビーダーマイヤー様式の特色
ビーダーマイヤー様式の特徴は、当時の時代背景を受け反貴族趣味ながら優美さがまだ残されているところです。建築は王侯貴族の時代・バロック時代のように壮大なものではなく小規模になり、生活に密着した内部構造を持つようになりました。当時流行った(ネオ)クラシック様式の影響を受け、均整を乱すことは避けられてます。
床の模様はユーゲントシュティルほどには単調でなく、かといって細密細工を組み合わせた絢爛豪華な貴族趣味も避けられてます。部屋の間取りはバロック時代と、歴史主義との間という時代背景を受け、狭い部屋のときがあったり、天井も必ずしも高いわけではありません。
内装は心地よい生活空間をかもし出すべく落ち着いた色調で統一されてます。シャンデリアはシェーンブルン宮殿に見られるような華やかなマリアテレジア様式が不釣り合いなため、小さな空間にふさわしいものに入れ替わります。
壁布はそれまでの主流であったゴブラン織りに代わり、工場生産の高級織物が使われ、これが独特の心地よい生活空間を演出します。今でもウィーンのところどころで見かけられるビーダーマイヤーの優雅なストライプ模様は、産業革命の結果、大量生産が可能となったこの頃の紡績技術の産物です。
調度類はバロック時代に好まれた装飾過多を避け、優雅な曲線のみを残すことになります。機能性が取り入れられたユーゲントシュティールほどには直線的ではなく、ゆるやかな曲線に特徴が認められます。壁に掛けられた絵画は狭い壁面空間にふさわしく小型化し、肖像画や自然描写など小市民的題材が好まれました。
5.何処で見られる?
建築物はウィーン市内にはあまり多くなく、ウィーン川左岸ヒィーツィングからシェーンブルン宮殿の間の地域か、せいぜいホテルビーダーマイヤー程度。ウィーン郊外のバーデンには有名なホテルサウアーホーフ(独/英) をはじめ、多くの建築が残ります。バーデンはビーダーマイヤー建築の宝庫です。
絵画はウィーンの森(南の森)観光で行くヒンターブリュールで1865年に他界した大画家ヴァルトミューラー/Ferdinand WALDMUELLER(独)が良く知られてます。強烈な日差しと影の画家ヴァルトミューラーの残した絵画はベルベデーレ宮殿に数多く展示され、当時の中産階級が好んで散策したウィーンの森の日常風景を生き生きと描写しています。ヴァルトミューラーの絵画画像リンクは ⇒こちらを参照。(新)古典派とも考えられる肖像画家アマリンク(独)の残した絵画にもビーダーマイヤーの雰囲気が見られます。
博物館なら応用美術博物館の家具・手工芸品。美術館ではないためあまり知られないもののウィーン市立歴史博物館(独) は、入ると豊富なコレクションに驚かされるでしょう。ウィーン市立博物館はプライベートガイドで観るとウィーンの歴史概略が理解できお勧め!。墓石の博物館と言われる聖マルクス墓地(独)の墓石彫刻。家具調度類は応用美術博物館や、最近オープンした宮廷家具調度博物館/hofmobiliendepot(独/英)にも膨大な展示が見られます(最近未確認 m(__)m )。
なお、南ドイツのミュンヘン・ノイエピナコテーク/Neue Pinakothek(独)美術館でロマン派または後記ロマン派のカール・シュピツヴェク/Carl Spitzweg(独) (1808-1885)の絵が見られます。彼は1844年からのFliegenden Blaetter誌の挿絵の仕事をしてます。陽気でロマン溢れ、ビーダーマイヤー時代を彷彿とさせる気楽で愉快・無責任な人々を生き生きと描写した絵は素晴らしいです。ウィーンからは列車で5時間。行くことがあったらお薦め。シュピツベックの絵画画像リンクは ⇒こちらを参照。