トップページ名所リストアッププラター遊園地

1997/06/29-2007/11/22-更新23/12/10

プラター遊園地の大観覧車/Riesenrad

M.Steiner記念版 今年1997年に100才になる大観覧車は今も変わらずプラター遊園地で回り続けてます。

関連リンク:
プラター/Prater(独) プラター遊園地
google.at画像検索「prater wien」
大観覧車/Riesenrad(独) 公式ページ
大観覧車/Riesenrad(独) 独語ウィキペディア
マダム・タッソー蝋人形館(独)
プラターの森を抜ける小電車(独/英)
プラターの貸し自転車屋さん(独/英)
シュバイッツァーハウス(独)

プラター遊園地の始まり

オスマン・トルコをウィーンから追い払った後、17世紀初頭のころのことです。ヴォルツァイレ通り778番地 (現在は17番地) に「シュタット・タッフェルネ/Stadt-Tafferne」というウィーン初のワイン居酒屋がありました。

そこで給仕として働いていたのがTaffern-Micherlと呼ばれていた20歳のミヒャエル・アイノテル/Michael Ainötherです。身長わずか1.25メートルほど、この足が曲がって猫背の若い青年は、明るく真面目に働き、その容姿が目につくのもあって店の客たちから人気がありました。

ある日ミヒャエルは、当時のウィーンの人々が好んで散歩するプラーターの草原に、公共の娯楽施設を作る案を思い立ち、イェーガーツァイレ(現在のプラーター通り)の端にある広場に旅館を建てたいことをお店の常連客たちに持ちかけます。

ワイン酒場の常連客にはウィーンの資産家も居て、ミヒャエルにお金を貸し、資産家たちの取りなしでミヒャエルは、治安判事の許可を得ることもできて、1603年5月01日に簡素な木造小屋として旅館をオープンしました。

そして、入り口の上に次の詩が掲げられました。「カタツムリが世界中を一周するまで、そして喉の乾いたアリが海の水を全て飲み干すまで、神の祝福あれ」(Gott behuet dies Haus so lang, Bis ein Schneck die Welt umgang, Und ein Ameis dürst so sehr, Daß´s austrinkt´s ganze Meer.)

同年の夏、ミヒャエルはレストランの拡張工事でボーリング場が建設され、失業した俳優たちのために人形劇を上演するステージも設けられました。さらに木造の小屋は1608年に美しい石造りの家に変わり、そこではビール、ワイン、セルベラのソーセージ/Cervelatwürsteやチーズの他、ブルジョア家族向けに高級料理も提供されました。

元バーボーイだった彼は裕福になり、結婚し、1651 年に亡くなるまで店を経営しました。その後プラーターヴィルトハウスが他の人に移ります。

さらに、プラターには様々な起業家が他の軽食スタンドや、ブランコ、メリーゴーランド、射的ギャラリー、人形劇場、その他の娯楽施設を備えた屋台をオープンさせます。

色鮮やかに塗られた小さな馬に乗って上り下りしたり、円を描いたりするのが好まれたり、目もくらむような高さ棒を投げて輪をくぐらせる遊戯も好まれ、これを「リンゲルシュピール/Ringelspiel/輪遊び」という名前で呼ばれ親しまれてました。

これがミシェルによって始まったヴルステルプラーターです。この遊園地の名前の「ヴルステル」は、俳優、人形遣い、劇場監督のヨーゼフ・アントン・ストラニツキーが創作した旧フォルクス劇場のキャラクター、ハンスヴルストに由来するそうです。

プラター遊園地の発展

プラターの森が庶民に開放されたのは、今から200年以上も前のことです。解放したのはマリーアントワネットのお兄さんで、民衆皇帝とか、改革皇帝と呼ばれた神聖ローマ皇帝ヨゼフⅡ世です。ヨゼフⅡ世は、その他にシェーンブルン宮殿の庭園や、アウガルテン宮殿の庭園も一般開放してます。

開放当初のプラターの森は、お狩り場としての大きな森が広がるのみで、今のような遊園地は無かったそうです。ウィーンの産業革命はヨーロッパの他の国よりも少し遅れてました。産業革命が浸透するにつれて勃興してきたウィーン市民階層の散歩の森として賑わうようになり、その市民達をターゲットとした露天や屋台が集まったのが、現在のプラター遊園地のはじまりだそうです。

プラターの大観覧車

このプラター遊園地は、始まりが自然発生的なものですから、遊園地を取り囲む塀や柵がありません。つまり、入り口も出口も無く、催し物を利用するときだけお金を支払うわけです。見て回るだけなら無料です。

プラター遊園地呼び物の大観覧車/Wiener Riesenrad は、イギリス人の技師ウイリアム・バセットがウィーンのものを含め、ヨーロッパとアメリカに全部で5つの大観覧車を作ったうちの一つだそうです。

プラターの大観覧車は二次大戦終わりに空爆の被害を受けました。その後、ウィーンの他の建造物と同じようにきれいに直されてます。大観覧車が修復された直後に映画「第三の男」の撮影に使われ、この映画の世界的な大ヒットによって有名になりました。

この大観覧車が作られた頃は、ウィーンが帝都として大いに繁栄していた時でした。環状城壁にかわり環状道路が通り、リンク通り辺りの建造物は一通り完成してました。ドナウ川の河川工事も終わり、今の地下鉄4号線の前身・ウィーン市快速線が走ろうという頃でした。

100年前というと電動化が進む最中です。観覧車も当初は手動(馬)でも動かせる設備がありました。建物の中に馬が回す巻き上げ機の跡が残っているのを見たことがあります。今でも停電時などには、それを使い手動で動かすことができるそうです。(2008年5月機械室の地面がコンクリートにされ痕跡消失を確認)

大観覧車はドイツ語で「巨大な=観覧車/Riesen=rad」と呼ばれるだけあり、近くでまで行くと、驚くほど大きなものです。回転速度は秒速 0,75m。ゆっくり上ってゆくと少しずつウィーンの街並みが見えてきます。最高地点は 65m 位まで上がります。ウィーンの森がウィーンを取り囲むのが見え、ドナウの向こうに建てられた大きな国連の建築群まで望むことができます。大観覧車は正確に東西南北に作られており、ワゴンに乗り込み、左が北です。因みに、ウィーン市内から遠望に緑の丘が見えたらそれがウィーンの森です。ウィーンの市の約3倍の広さで、ウィーンの北から西にかけて外側を取り囲む丘陵地帯、別名アルプスの東の尻尾(故:黒沢真澄氏の言)です。

プラター遊園地の楽しみ方

プラター遊園地にはソーセージ屋台が多いので、美味しいウィーナーソーセージでも食べながらのそぞろ歩きはお勧めです。天気の良い日には大観覧車の奥から往復している小さな電車(独/英)でプラターの森の奥まで足を伸ばしたり、貸し自転車屋さん(独/英)で自転車を借りるのも良いでしょう。貸し自転車を借りる場合には身分証明書か、100ユーロ程度のお金を保証に預けます。

29.JUN.'97 高崎守弘