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1998/07/01-2018/03/13

ウィーン旧市街地の徒歩観光:オペラ座からシュテファン1/5

関連項目:
2/5:カフェーモーツアルトとティロラーホーフ
3/5:ロプコヴィッツ宮殿とカプチーナーグルフト
4/5:シュヴァルツェンベルク宮殿と皇帝賛歌
5/5:ケルンテン通りとシュトック・イム・アイゼン広場

ウィーン旧市街地の観光はオペラ座から

歩行者天国ケルンテン通り入口に立つと、左には有名なホテル・ザッハー、右にはインテリアショップがあります。この場所には、江戸時代終わり頃1857年に城壁が取り壊されるまで7つ(ないし8つ)あった城門のうちの一つ、ケルンテン門がありました。

インテリアショップの場所には、ケルンテン門が取り壊された後の1886年にCafe Fenstergucker/カフェ・フェンスターグッカー、1920年代には銀行、1932年にStadtkaffeehaus、さらに第二次世界大戦後に紳士服店、その後2001年まで旧エアー・フランスのオフィス、2001年から2017年までスターバックス・コーヒー(独)が入ってました。

インテリア店の2階の角に見つかる ①「窓から覗く像」(Fenstergucker)は、かつてここにあったケルンテン門の歩行者門上にあった飾りです。

現在ここに飾られているものはコピーで、オリジナルはケルンテン門が取り払われた1861年にウィーン市立歴史博物館に移されました。元々は城壁の外に広がる郊外方向を眺めていた像だそうです。

ウィーンを取り巻いていた直径一キロ程度の環状城壁については、このインテリア店の角から Walfischgasse を挟んで、道の反対の建物2階角に「ここに城壁があった」と書かれた ② 記念プレートで確認できます。

城壁が取り壊されてから2次大戦までは、このスターバックスの角に城門上部の飾り像の名を取った「Cafe Fensterguker/カフェ・窓から覗き」があったそうです。

ウィーン名物ザッハートルテのおはなし

ウィーンの5つ星 ③ ホテル・ザッハーや、年間27万個 30万個(2006/1/11テレビpro7情報)も作られるザッハートルテ/Sachertorteの話は観光上避けて通れないほど有名な話です。

サッハートルテは、メッテルニヒ(日)(1773-1859)の宮廷でコックの見習いだったフランツ・ザッハー/Franz SACHER(1816-1907)の考案とされ、1832年に彼が作ったケーキ(トルテ)を「Mrザッハー」の「トルテ」と呼ぶようになりました。

時は神聖ローマ帝国が終わり、代わってオーストリア帝国になった頃のことでした。ドイツ生まれの貴族メッテルニヒ/Metternich がウィーンの宮廷で活躍していたときです。

メッテルニヒは、マリア・テレジア宰相カウニッツの孫娘マリア・エレオノーレ・カウニッツとの結婚(1795)によりウィーンの宮廷で足場を固めました。そして外交官としてナポレオンと皇帝フランツの娘マリー・ルイゼの結婚を成功させ、その後のウィーン会議でも活躍し、宰相になってからはヨーロッパの御者と言われる程に絶大な力を築き上げてゆきます。(※宰相:皇帝が定める首相)

当時は、優雅な家庭的な雰囲気が好まれたビーダーマイヤー時代です。ある晩メッテルニヒ公の宮殿に大切なお客様が突然訪れたそうです。深夜でコックが病気だったのもあり、他にコックが居ず見習いだった16才の少年フランツ・ザッハー/Fraz Sacher(独)が食事を出すことになりました。料理は好評、中でもアンズのジャムを挟んでチョコレートコーティングしたケーキが特に好評だったそうです。調理人の名前がつけられたこのザッハートルテは、冷蔵庫が無かった当時でも一週間経っても味が変わらないことから、帝都ウィーンの土産としてヨーロッパ中で知られるようになりました。

ザッハートルテを生み出したフランツは、そのケーキを息子エドゥアルド/Eduard Sacher(1843-1892)に伝え、1868年にケルンテン門劇場が取り壊された後、1876年にエドゥアルドがその場所で宿を始めたのがホテル・ザッハーの始まりです。

因みにホテル・ザッハーが立つまでその場所に建っていたケルンテン門劇場(独)でベートーベン「第九」の初演がされたのは有名な話です。環状城壁とお堀が取り壊され、それまで使われていたケルンテン門劇場に替わって現国立歌劇場、当時の宮廷歌劇場が完成したことから「ケルンテン門劇場」は取り壊されました。

スペイン式宮廷作法とフランツ・ヨセフ皇帝

オペラ座裏にホテルザッハーが建った頃は、宮廷では先代の病弱な皇帝フェルディナンドがプラハに隠居した後の皇帝フランツ・ヨゼフ時代でした。

18才の若さで帝位についたフランツ・ヨセフ皇帝は、フランス革命後の民族主義が浸透する中、多民族国家維持のため官僚で身を固め日夜執務に励んでました。

当時は、宮廷でパーティがあると、伝統あるスペイン式宮廷作法に従い、先ず皇帝に食事がサービスされました。その次が皇后、それから来賓へのサービスという順番でした。また、スペイン式の宮廷作法では皇帝が食器を持つ時のみ他の人も食器を持つことが許されたことから、多忙だった皇帝が急いで食事を取ると、招かれた王侯貴族達はほとんど食器を手にすることができなかったそうです。

幸い、美しい皇后エリザベートが食器を手にしている間は、皇帝は食器を持ったまま皇后の食事が済むのを待っていたものの、皇后様はダイエットのためにスープぐらいしかお召しにならなかったので、招かれた人々は空腹のまま王宮を出てきて、王宮近くのホテル・ザッハーで食事を取ることになりました。

ホテル・ザッハー大繁盛

そのホテル・ザッハーの名をヨーロッパ中に広めたのは、エドゥアルドの亡き後にホテルを支え続けた未亡人アンナでした。百年も前に社交界で葉巻をくゆらせたという「肝っ魂母さん」の力でホテル・ザッハーはヨーロッパの社交の中心となったそうです。そのアンナ・ザッハーの肖像画は今でもホテル内レストラン入口右(2008春訂正)レセプションの壁に掲げられてます。

1997年に出版されたウィーン観光詳細ガイドブック(絶版)のために1995年に執筆した文章を公開
高崎守弘

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