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ウィーンの1区から23区
ウィーンは一般にはウィーン市と呼ばれますが、実は同時にオーストリアの9つの自治州の内の一つでもあります。元々ウィーンにあった下部オーストリア州の州都は、現在、西へ60キロのサンクト・ペールテン市に移されています。
広さ415平方キロのウィーンは全部で23の区に分けられ、ウィーンを州とするとこれらの区は市とも考えられます。中世時代から幕末期まで直径1キロの城壁に取り囲まれていた旧市街地が1区。2区から9区まではその1区を取り巻き、ドナウ本流と外環状道路までの数キロ間に拡がります。さらにその外側が10区から23区です。2区は1区のすぐ東を流れる運河とドナウ本流の数キロ間に位置し、2区から右回りに行政区の数字が大きくなります。つまり、行政区の数字が大きくなるにつれ、中心から遠ざかるわけです。
オスマントルコの影響
ウィーンの旧市街地(1区)は、本来都市が拡大するべきバロック時代に、迫り来るオスマントルコの脅威から、城壁外へ拡大できませんでした。しかし、300年ほど前にオイゲン公が活躍してオスマントルコを東に追いやると(26.Jan.1699カルロビッツ和約)、城壁内に留まっていたウィーンの市街地は一気に城壁の外側へと拡大しました(2-9区)。
ウィーンのバロック
これがウィーンにおけるバロック時代の建築ブームです。この当時に大勢を占めていた一般庶民の建造物は、明治時代に訪れた建築ブームまでには取り壊され、ほとんど残りませんでした。そうでなくとも、貧しい庶民は木枠に泥の壁の建物という状態がほとんどで、それらの建物は数百年間の風雨には耐えられず、失われてしまいました。当時の庶民の様子を偲ぶのでしたら、ハンガリーのユネスコ世界遺産・ホッロケー(画像)や、ルーマニアのマラムレシュ地方(画像)、ウィーン美術史美術館のブリューゲルの部屋あたりがお薦めです。
ウィーンに今でも残るバロック時代の建造物は、ウィーンの観光名所として知られるシェーンブルン宮殿やベルベデーレ宮殿、カール教会など、ハブスブルクをはじめとする当時の王侯貴族の建てた立派な宮殿・教会のみです。
ウィーンの城壁と都市の発展
バロック時代に拡大したウィーンの新市街地は、当初、城壁が無くむき出し状態でした。名将オイゲンの進言を受けた皇帝レオポルド一世が「リニエンヴァル/Linienwall」と呼ばれた城壁を建造し(26.Apr.1704-11.Jul.1704)、それ以降のウィーンは、中世時代からの直径1キロの内環状城壁の他に、その数キロ外側に新たに作られた2本目の外環状城壁を持つことになりました。
無用の長物となってしまった内環状城壁は、ハプスブルクの居城である王宮の防備のために残されたものの、ナポレオン軍の大砲の脅威に屈服し、江戸時代終わり頃には、産業革命により勃興してきた中産階級の散歩に使われる程度となってました。
19世紀の人口増加で市街地が外環状城壁の外へと拡大してくると、城壁が往来の支障になり取り壊されることになりました。これは、リンク城壁の上を散歩していた皇帝Fヨセフの暗殺未遂が契機で、有名な「Das ist mein Wille/朕の意志なり」という皇帝の勅語により、江戸時代末期から明治初期には2本の城壁が取り壊され、2本の環状道路、リンク通り/RingstrasseとGueltel/ギュルテルが造られました。これにより、市民達は城門という細い抜け道を使わずに自由な往来が可能となったわけです。
【1区】【2区】【3区】【4区】【5区】【6区】【7区】【8区】【9区】【10区】【11区】【12区】【13区】【14区】【15区】【16区】【17区】【18区】【19区】【20区】【21区】【22区】【23区】